ジェフリー・フェーファー『影響力のマネジメント』より
今回紹介する本はこんな人におすすめ⇩⇩
- 本当は「権力」が欲しい。でも面と向かって「権力欲があります」とは言えない人
- 職場に「役職は低いのに、なぜか誰も逆らえない人」がいて、地味に振り回されている
- 「なぜか自分に仕事や相談が集まってくる」自覚はあるが、それが何なのか言語化できていない
- 「指鹿為馬」「大奥」のような歴史エピソードや、組織論・社会学に興味がある
Hello World! D氏です。
現在D氏は、大学職員として1万弱の教職員が働く「組織」のただなかにいる。
組織とは、なにか? それはある「目標(ないし目的)」を達成するために、分化した役割を担って協同する人間のあつまり、である。
目標(目的)とは、例えば大学なら学生への教育サービスを提供することであり、研究者への研究環境を提供することだろうし、TOYOTAのような自動車製造業(メーカー)なら、モノつくって、売り、利益をあげる。そして企業価値(それはしばしば株価という指標で測られることになる)を向上させる、ということになるだろう。
海賊漫画『ワンピース』にこんなやり取りがある。
主人公の海賊ルフィを追いかける海軍「大佐」スモーカーが、組織に属しながら「ルフィをなにが何でも俺が捕まえる!」という個人的信念を貫き通すために、地位(=権力の別名だ)を求めるくだりだ。
「海兵は海兵…海軍が組織である以上、大佐で我を通すのには限界がある…。おれ達の今必要なのは”地位”だ」 (尾田栄一郎「ワンピース」45巻)
また、すでに海軍「中将」(これはものすごく高い位階である)となっていたガープ(海賊王ゴール・D・ロジャーを捕まえるためだけに動くルフィのおじいちゃん)は別の巻でこう言う。
「自由にやるにはこれ以上の地位はいらん」(「ワンピース」65巻)
世の現代っ子と同じように、D氏も若いころは
D氏
しかし、30代になり、後輩や部下も増え、仕事も増えてきた。業務内容にも習熟して、前任者たちがやってこなかった独自の効率的なやり方もしたくなる。
加えて、働くモチベーションとしての「承認」が欲しいし、働きに見合う対価も求めるようになる。
(ありていに言って給料をあげてほしい)
それに、同世代とは「シゴデキ」か否かで比較されるし、評価されもする。
そんなことは資本主義社会における民間企業では当然だが、実は大学という非営利組織であっても、中身はそう変わらないのである。
すると、徐々に「立場」や「権力」(あるいは影響力)という問題を避けては通れなくなる。
ともするとD氏はロマン主義的で、哲学だのSF・ファンタジー小説だのに走って糸の切れた風船のように地に足のついていない人間だと思われがちである(そのように言われたことはないけれど)。
だが実際は実務家として堅実に事務職をこなし、ときには職人気質であることさえあるオトコである。
嘘ではない。(「出世」だってしたことあるもん!)
しかし問題は、D氏の出世そのものよりも、「この世界において権力を握るために理解すべき“法則”あるいは“構造”とはなにか」ということである。
なぜなら、同じ役職者の中にも、相対的に権力=影響力が大きい人間とそうでない人間がいるからだ。
たとえば、同じ「主任」であっても、仕事をやっていくうえで一方の主任の意見より、もう片方の主任の意見が通りやすく、採用されやすく、そしてその意見が周囲の行動を動かすという現象は頻繁にみられるのだ。
つまり、組織における公式の立場というのは、それ自体で影響力の大きさを自動的に決定するものではない。
では、他者を動かせる影響力という意味での権力とは、どのようにその大きさが決まるのか?
今回はそんなことを考えていきたい。
Q. なぜ「秘書」が権力を持つのか?
きっかけは、些細な実体験だった。
会議の日程調整、資料の受け渡し、ちょっとした根回し――そうした「情報」の通り道にいる人間が、役職上は決して偉くないのに、いつの間にか組織の中で一番頼りにされている。そんな光景を、D氏は何度も見てきた。
仕事がデキるかデキないかという評価軸だけでは説明のつかない、もう一つの価値がそこにはある。
彼ら・彼女らはしばしば上司に頼られる存在になり、発言力を持ち、グループのあり方を自分の望む方向へ静かに変えていく。これはもう、立派な「権力」と呼んでいいものである。
そしてこの現象は、実は歴史上何度も繰り返されている。
歴史が繰り返してきた「非公式権力」の物語
ここでは、その組織において必ずしも公式に認められていないのに、影響力をふるっているという例を「非公式権力」として、みていく。
①趙高――鹿を指して馬となす
みなさんは「指鹿為馬(しろくいば)」という故事成語をご存知であろうか?
この意味は、鹿を指して馬と為す、のとおり、道理に合わないことや間違ったことを、権力を背景に強引に押し通すこと、また事実をねじ曲げて白を黒と言い張ることだ。
それはこんなエピソードが基になっている。
秦の始皇帝の死後、宦官・趙高は権勢をほしいままにした。
あるとき彼は、群臣の前に一頭の鹿を引き出し、こう言い放った。
「これは馬である」
それはもちろん誰の目にも鹿であった。
しかし趙高に逆らえば粛清されると知っている官僚たちは、「馬でございます」と次々に頷いた。
だが、中には正直に「鹿です」と答えた者もいた。彼は後に、趙高によって処分されたという。
趙高の公式の地位は、決して皇帝ではない。しかし彼は「皇帝への情報の通り道」を独占することで、皇帝本人以上の権力を手にしていたのである。
まさに、権力が地位ではなく依存関係から生まれることを、これ以上ないほど鮮烈に示した例といえる。
②ミッシー・レハンド――大統領の隣の部屋に住んだ女
フランクリン・D・ルーズベルト大統領の個人秘書、ミッシー・レハンドは、ホワイトハウスの中に自室を与えられ、大統領一家と食卓を共にするほどの信頼を得ていた人物である。
彼女は閣僚ではない。
選挙で選ばれてもいない(つまり民主主義のプロセスを経て大衆の代弁者として支持されたわけではない)。
しかし大統領のスケジュールと来客、そして「誰の話を大統領の耳に入れるか」を事実上コントロールする立場にあった。
ワシントンの政治家たちは、大統領本人に会う前に、まずミッシーの機嫌を伺ったという逸話が残っている。
このように、公式な権限がゼロに近くても「人へのアクセス」を握っている者は閣僚以上の実質的な力を持ちうる。
③春日局――乳母という「無位無官」が将軍を選んだ
現代の職場にも同じ構造がある。
役職上は平社員やパートであっても、長年の在籍によって「誰が何を知っているか」「誰にどう根回しすればいいか」を完全に掌握している、いわゆる「お局」的存在だ。
彼女(あるいは彼)を敵に回すと、正式な決裁ルートすら滑らかに進まなくなる。
この現象を歴史上もっとも劇的に体現したのが、江戸幕府大奥の礎を築いた春日局である。
彼女の公式な肩書は、三代将軍・徳川家光の乳母――ただそれだけだ。
幕府の役職でもなければ、大名でもない。血筋も名家というわけではない。
にもかかわらず、春日局は、家光の乳母という立場を武器に、江戸から駿府まで単身赴き大御所・徳川家康へ直訴、家光を正式な世継ぎとして認めさせることに成功し、家光が将軍となってからは「大奥」を構造的に整備するなどした。
さらに常軌を逸しているのは、乳母という一介の身分でありながら、後に朝廷に参内し、公家にしか許されない「従三位」という位階を授かっている点である。
つまり、非公式権力が極まりすぎて公式の権力に転化したわけである! 恐るべきお局!
将軍という日本最高の公式権力者のすぐそばで、身の回りの世話と情報の管理を独占した女中たちの序列は、時に幕閣の意向すら左右した。
将軍への「取り次ぎ」を握るということは、将軍の権力そのものを間接的に握ることと、ほとんど同義だったのである。
④絵島――非公式権力が公式権力の堪忍袋を超えたとき
もっとも、この種の権力には限界がある。それを教えてくれるのが、春日局から約百年後、同じく大奥の頂点――大年寄という地位にあった絵島の転落劇(絵島生島事件、1714年)だ。
絵島は将軍生母付きの大年寄として、大奥の人事と情報を完全に掌握していた、まさに“お局”の頂点である。
ある日、彼女は寺への代参の帰りに芝居小屋に立ち寄り、人気役者・生島新五郎と歓談して門限に遅れた。これだけであれば単なる不行儀で済んだかもしれない。
しかし当時、大奥の風紀粛正を狙っていた幕閣にとって、これは絶好の口実になった。
絵島は取り調べの末に流罪、関係者は次々と処罰され、大奥から千人単位の人員が整理されるという、江戸時代最大級の粛清劇に発展した。
情報と人へのアクセスを握るという同じ武器で頂点に立った春日局と絵島だが、明暗を分けたのは、その権力が公式権力の許容範囲の中で行使されていたかという一点である。
非公式権力は、公式権力が黙認している間だけ機能する、きわめて不安定な力なのだ。
理論の核心――Mechanicの「下位参加者の権力論」
さて、ここからは少し理論的な話になる。興味の湧かない人は流し読みでよいですよ!
これまで語ってきた現象を、組織論の分野で初めて体系的に理論化したのが、社会学者David Mechanicが1962年に発表した論文「Sources of Power of Lower Participants in Complex Organizations(複雑な組織における下位参加者の権力の源泉)」である。
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参考
参考文献:David Mechanic (1962).Administrative Science Quarterly
なぜこの論文が生まれたのか
この論文の背景から話そう。
1950年代から60年代初頭の組織論は、マックス・ウェーバーの官僚制理論を土台に、「組織図上の地位の高さが、そのまま権力の大きさを決める」というモデルが主流だった。
しかしメカニックは、病院組織を観察する中で、この前提では説明のつかない現象に気づく。
作業グループが組織目標に反して生産を制限したり、病院の付き添い人が組織改革を阻止したり、囚人が看守を事実上コントロールしたりする――そうした「公式構造と矛盾する非公式な権力」が、現実にはいたるところで発生していたのだ。
つまり、組織とは実はある意味で、下位参加者の慈悲にすがっている脆弱な存在でもある、という事実の発見である。
権力とは「依存」である
メカニックによる「権力」の定義はシンプルだ。
権力とは「その力が存在しなければ起こらなかったであろう行動をもたらす、あらゆる力」であり、それは「依存(dependence)」と密接に結びついている。
ある人物が他者に依存しているほど、依存された側はより大きな権力の影響力を持つ。
そして下位参加者は、組織が依存する以下の3つへのアクセスを独占することで、権力を獲得する。
- 【情報】組織、人物、規範、手順、技術などに関する知識
- 【人】組織内外の、組織が頼りにしているあらゆる人物
- 【道具】設備、機械、資金などの物的リソース
たとえば先述の例でいえば、趙高が握ったのは皇帝への「情報」、ミッシー・レハンドが握ったのは大統領への「人(アクセス)」、大奥が握ったのはその両方だったと解釈できる。
権力を強める4つの要因

メカニックはさらに、こうしたアクセス・依存の度合いを左右する要因を、4つに整理している。
①専門性(Expertise)
特定の知識を独占している者は、上位者を依存させることができる。ただし、その専門性は「替えが効かない」ものでなければ意味を持たない。
誰にでもできることをいくら極めても、権力の源泉にはならない。
②努力と関心(Effort and Interest)
上位者は、すべての細かい業務に時間や関心を割けない。
上司が面倒がって手をつけない領域に、下位の人間が黙々と努力と関心を注ぎ続けると、その領域は事実上その人のものになる。
組織はこの「協力」を得る対価として、裁量権を譲り渡すのである。
③魅力(Attractiveness)
人としての魅力がある者は、他者へのアクセスを得やすい。
ハロー効果ということもある。人は他者の評価をするとき、一貫性を持たせようとする。
美男美女は仕事でも際立った能力を発揮できるであろう、と人々は安直に信じ込む。
そして一度アクセスを確立すれば、自分の主張を通したり、承認や好意を引き出したりしやすくなる。ここでも本質は「依存」であり、周囲がその人物の好意や承認を求める関係性そのものが、権力の基盤になる。
④配置と地位(Location and Position) 物理的な席の配置
物理的な席の配置や、コミュニケーション・ネットワークの中でどこに位置しているかも、情報や人へのアクセスを直接左右する。
メカニックはこれを「中央性(Centrality)」と呼んだ。
役員や学長の秘書が、公式な権限がほとんどないにもかかわらず絶大な実質的権力を持つのは、まさにこの「中央性」ゆえである。
これら4つに共通する論理はひとつしかない。
「いかにして上位者が、自分なしでは目的を達成できない状況を作り出すか」
――専門知識の独占、面倒な実務の肩代わり、対人関係の魅力、そしてリソースの結節点としての位置取りは、すべて下位参加者が組織運営の「不可欠な存在」となるための、有力な交渉材料なのである。
まとめ:では、D氏自身の権力の源泉は何なのか

冒頭で、「同じ役職者の中にも、相対的に権力=影響力が大きい人間とそうでない人間がいる」と述べた。
私は現在「34歳、主任」という立場だが、同じ課に「35歳、主任」の女性がいる。
彼女はそれはもう、誰からも頼られ、事務長や研究科長(教員のトップ)とも懇意にし、全方位であらゆる影響を振るう人である。
彼女の権力の源泉はどこにあるのか? あるいは、彼女とD氏の権力=影響力の差は主として何に起因するのか?
私の分析によれば、それは「担当業務」である。
彼女は「教員人事」という業務を担っている。詳細は省くが、その業務は大学の根幹である教員の人事申請の窓口となり、「人事」という組織人の最大の関心事において最速の情報把握者となっているのだ!
つまり、「中央性(Centrality)」の極致なのである。
一方でD氏はどうか。彼は教務課という部署で、教員と大学院生の研究活動を地味に支えている。
これは実務家としては十分に堅実な仕事だが、正直に言えば、メカニックの4要因に照らして自分を採点してみると、いささか心もとない。
専門性――誰にも替えられない知識を持っているか。微妙。「学位」(博士論文や博士号)に関するもろもろの知識はある
魅力――これは自己申告するのも恥ずかしい項目である。めちゃイケメンである。
配置――教務課という「情報の通り道」にはいる。ここはまあまあ悪くない。
一番当てはまるのはおそらく「努力と関心」だ。
誰もがやりたがらない面倒そうな業務を黙々とこなしているうちに、いつの間にかその領域が自分の担当になっていた、という経験に心当たりがある。
つまりD氏は、趙高のような策謀家でも、ミッシー・レハンドのような懐刀でもなく、単に、みんなが面倒くさがることを拾い続けている便利屋という座組みで、この理論の末席に、かろうじて引っかかっているにすぎない。
これはこれで一つの権力のかたちなのだと、メカニックの理論は教えてくれる。
ただし、権力を「握っている」というより、上司が自分なしでは回らない状況に、なし崩し的に落ち着いてしまったという方が正確かもしれないけれども……
権力の理論を語りながら、自分の権力がどうやら「戦略」ではなく「便利屋としての慣性」でできていると気づくのは、なかなかに据わりの悪い読後感である。
しかしそれが現実。受け止めなければならぬ!
あなたの職場にも、役職とは無関係に、なぜか誰も逆らえない人物がいないだろうか?
その人が握っているのは、情報か、人か、それとも単に、誰もやりたがらない仕事を拾い続けてきた慣性の力か。
よければ考えてみてほしい。
それではまた。
参考 参考文献:David Mechanic (1962).Administrative Science Quarterly


