岸田秀『幻想の未来』(p.244「自我の支えの否認」)より
今回紹介する本はこんな人におすすめ⇩⇩
- 「岸田秀」ってどんな人で、どんな本を書いた人なのか? を知りたい!
- 岸田秀に興味があるけどどの本から手に取ればいいか分からない
- 自分や他人の心や心理について興味がある
- 人間とはなにか? 自我とはなにか?について考えてみたい!
Hello World! D氏です。
皆さんにはこの人は信頼できる!と確信している学者がいるだろうか?
D氏にはたくさんいる。
現代日本人の学者に限定しても、例えば、丸山圭三郎(言語学)、西部邁(保守思想)、荒俣宏(博物学)、木村敏(精神医学)、鹿島茂(フランス文学)、大山泰宏(臨床心理学)、池上嘉彦(記号論)、池内紀(ドイツ文学)、土屋賢二(哲学)、柴山桂太(経済思想)、沼野充義(ロシア・ポーランド文学)、浜崎洋介(文芸評論)、西尾哲夫(民族学)……などなど。
その中でも、D氏が絶大な(という言葉では不十分なくらいの)影響を受け、考え方、視点、選択基準、果ては生き方そのものの指針を示唆された学者が数人いる。
(学者以外にも、小説家や物語の登場人物など、影響を受けた「人」はたくさんいるが、今回は学者に限定している。)
その最高峰が、このブログでも度々登場している「岸田 秀」である。
正直、現代日本においてD氏以上に岸田秀の本にこだわり、読み込んでいる34歳はいないのではなかろうか? というかいない。少なくとも周りには一人もいない(もっとも、D氏には友達がいないので分母がゼロとなり、これは統計的にはほとんど意味のない自慢となる)
それくらい、岸田秀の著作にたくさんのことを学び、思考させられてきた。だからこそ言う。
D氏
今回は日本(の34歳)一、岸田秀を読んでいる(に違いない)D氏が、数ある著作のなかから、「これは!!」と自信を持っておすすめする3作品をランキング形式で紹介する。
それぞれどのような観点でおもしろいのか? その観点も含めて概要を解説していく。
岸田秀の人間心理への洞察、発想の独創性、読ませる文章力、豊かで具体的な喩え、明晰な論理展開、着眼点の特異さをわずかでもお伝えできたらこの記事を書いたかいがある。
あらかじめ申し上げておくと、D氏は岸田秀に多大な影響を受けて尊敬もしているが、彼が書くこと言うことすべてが正しいという気は毛頭ない。盲信してはいない。
たんに、自らの人生経験と照らし合わせて、岸田秀の心理洞察に非凡な説得力(あるいは個人的な納得)を感じるので、読み続けているにすぎない。
奇しくも、岸田秀の『物語論批判』という作品の中でこんな表現がある。
「その理論のかたち、つまり説明の仕方の真偽というのは、じつは誰でも無意識のうちに自分の生活の実感からたどり返していってはじめてこれはほんとうらしいなとか、これは嘘だとか判定しているとおもうんですね」(p.23 注.竹田青嗣のことば)
簡単に言えば、岸田秀の理論にリアリティを感じるのは、D氏の過去の経験をその理論で解釈したときに極めて妥当性があると思えるから、ということなのだ。
ちなみに、当記事はたいへん長いので、以下の目次から興味あるところへ飛んでいただいて拾い読みしていただくのも勿論、結構です。
D氏が絶大な影響を受け続けている〝岸田秀〟とはそもそもだれか?

個人的なエピソードから話そう。D氏が岸田秀という人物を知ったのは、大学生の頃であった。
その頃のD氏といえば、もっぱら小説家・筒井康隆ばかり読んでいた。その筒井康隆のエッセイを通して、『ものぐさ精神分析』なる本を書いた岸田秀という精神分析学者がいるらしい、ということを知った。
ご存知の通り、筒井康隆は文学理論に極めて意識的な作家であり、『文学部唯野教授』でも精神分析批評を扱っているし、中高生時代にフロイト(精神分析学を創った人)全集を読んでいたというほど「精神分析」に関心を持っていた。
そのような筒井康隆が評価する岸田秀とは何者か? それが出発点であったと記憶している。
そして、D氏はすぐさまくだんの『ものぐさ精神分析』を買い求め、読み進めた。
「なんじゃこりゃあ!」とワナワナ震える手で文庫本のページを手繰りながら、彼は自身の内側で価値観がガラガラと音を立ててが崩れ去っていくという経験をすることになった。
その衝撃とは具体的になんなのか? 一言で表現すれば、日頃自身が漠然と感じていた疑問に明確な言葉と論理を与えて語っていたこと、であろう。
岸田秀の本を読みながら、様々な過去を想起し、ひとつずつその意味を理解し、「D氏」という人間存在がどのようなものなのかを把捉していく。
そんな経験はそれまで一度もしたことがなかった。
彼はそこからもう、10年以上岸田秀の著作を読み続けている。
0-1.岸田秀の略歴と基底となっている人生経験
あまり長ったらしく岸田秀の人物像について語っても仕方ないのだが、岸田精神分析と彼の人生経験はおそらく不可分なので、彼の著作を理解するのに有益となる範囲で略歴を記しておく。
岸田秀は1933年12月25日生まれ、2026年5月25日に92歳で亡くなっている。昭和一桁生まれなので大東亜戦争を経験している。
1945年の敗戦直後、岸田秀は中学生だった。そこで彼は、とあるきっかけから強迫神経症と鬱病に襲われた。
その心理的な苦しみから逃れようとあがく中で、神経症について論じていたオーストリアの心理学者・精神科医であるジグムント・フロイト(岸田秀は「フロイド」と表記する)の著作の出会うことになる。
岸田秀はフロイトの著作を読みながら人間精神の構造に向き合い、強迫神経症も鬱病も「自我」の問題であることを見出したのだった。
そう。ここでひとつ、重要なテーゼを掲げておく。「われわれ人間の一切の行動は『自我』に拠っている」というものである。
その自我とはなんなのか? いかに成立するのか? 問題のある自我とはなにか? なぜ問題になるのか? 他人の自我はどうなっているのか? 自我の構造は? 自我について考えてきた人には誰がいるか? 自我は変えられるのか?
そのような問題意識に取り憑かれて思索し続けてきた思想家こそが岸田秀という人物である。
0-2.哲学とは、あるいは精神分析学とはなにか?
ここで少し遠回りのようだが、D氏が「哲学」をどのように捉えているかについて記しておこう。なぜなら、D氏は岸田秀を極めて優れた「哲学」を展開した一人だと認識しているからである。
哲学というと難解で非実用的な思考の総体と思われがちであるが、D氏にとって哲学とは、人間の生き方、あるいは自己の生き方を問うということである。
D氏が哲学を見出す文章を読むとき、
その哲学は、結局のところ、どのような人間の生き方や社会のあり方、あるいは世界のあり方を指し示しているのか。
それは今を生きる私たちにとって、どのような意味を持つのか、あるいは持たないのか。
そういう観点からである場合が多い。
ありていにいって、D氏は哲学史研究にあまり興味がない。
ある哲学者が、誰から・何からどういう影響を受けたとか、その哲学が哲学史の中でどういう系譜に属しているのか、あるいは他の哲学者と比べてどこが同じでどこが違うのかということよりも、その哲学が何を述べていて、それが自分の人生とどう関わるかということが知りたいのである。
そして、岸田秀の「唯幻論」という哲学が、D氏の人生におけるあらゆる経験を解釈するのに、極めて有益だったのだ。
例えばD氏は、周囲から孤立したという「暗黒の中学生時代」の時期を経て、常に以下のような想いにとらわれてきた。
D氏
「人間」という存在が理解できない。
D氏にとってはそれは切実で重要な、この世界における最大の謎に思われた。
そして分からないことは分かりたいのが人間の性である。
それをなんとか理解しようとするのがD氏にとっての読書体験であり、そんな彼が、人間精神を真正面から考えている「精神分析学」という学問に少なくない関心を抱くのも無理ないことと言わざるを得ない。
ここで、簡単に精神分析とはなにか? についても触れておこう。
といっても、D氏ごときが解説するまでもなく、精神分析についてのわかりやすい書籍や論文は世界にあふれているので、こちらも岸田秀を理解する上で助けとなるであろう観点からのみ書く。
上述の通り、精神分析はジグムント・フロイトSigmund Freud(1856-1939)によって創られた理論であり、それが目指したのは精神病、厳密には神経症(ヒステリー)の治療であった。
彼は町医者としてヒステリーの患者と接したとき、彼・彼女らが身体機能的にはなんら異常を認められないにも関わらず、神経痛/知覚麻痺/硬直/運動麻痺/全身痙攣/チックのような疾患/持続性の嘔吐/拒食にいたる食欲減退/様々な視覚障害/反復する幻覚 などに患者が苛まれるのを不思議に思った。
彼らを治療する過程で、どうやら本人には意識できない心的外傷(pshychic trauma)がその誘因となっているらしいことを発見する。そして、人間の行動は意識だけでなく無意識(これがフロイトの発見のなかでおそらく最も一般に有名なものであろう)にも支配されていることをフロイトは指摘した。
(厳密にはフロイト以前にも「無意識」的な概念を提唱した学者は複数いたが、フロイトの学術的功績はそれを体系化してみせたことである。が、今回はそこには触れない)
D氏はこの、自分では意識できない行動の原因という概念に非常な興味がある。
「どうやら人間は、もっとも身近であるはずの“自分”さえまともに扱えないらしいぞ」という気づきがD氏を岸田精神分析に向かわせたのである。
そして、そのようなD氏の問題意識は今、この世界で生きてこれを読んでいるあなたにとっても、おそらく共有されるはずなのである。
だから、以下でD氏が紹介する岸田秀の3作品から、どれか一冊でも気になって手に取っていただければ望外の喜びである。
D氏おすすめ第1位『幻想の未来』―岸田精神分析をもっとも体系的に示した代表作―
1-1.『幻想の未来』をおすすめする理由
前置きが長くなったが、ここから数ある岸田作品のなかでD氏が最もお勧めする作品を紹介しよう。
『幻想の未来』(1985)である。それはもう他の追随を許さない圧倒的な1位である。
D氏はこの本を初めて手に取り読み進めていったとき、じわじわと感情の奥底から湧き上がる衝撃に圧倒された。
「これはなにかとんでもないものに出会っている瞬間だ……!!」
という直感があった。
D氏
なぜそう思ったか? この本が何よりもすごいところは、それまでD氏が漠然と感じてきたことをこれ以上ない的確な表現で言語化し、表現しえているところである。
例えば、皆さんは、なぜテストで良い点が取りたいのか? 偏差値の高い高校や大学にはいりたいのか? なぜ英語を話したいのか? なぜかわいくなりたいのか? なぜかっこよくなりたいのか? なぜルックスの良い恋人がほしいのか? なぜモテたいのか? なぜ結婚したいのか? なぜ就職活動でいわゆる一流企業に内定したいのか? なぜ公務員になりたいのか? なぜ営業でいい成績を残したいのか? なぜ出世したいのか? なぜ権力が欲しいのか? なぜ金が欲しいのか? なぜ起業したいのか? なぜたくさんのアニメを観たいのか? なぜ海外旅行やディズニーリゾートにいきたいのか? なぜたくさんの本を読みたいのか? なぜバンドで売れたいのか? なぜ美しい絵を描きたいのか? なぜその宗教を信じるのか?
要するに、今あなたがそれを「欲望」する原因は何なのか? 考えたことはあるだろうか?
ところで、キリスト教カトリックには「七つの罪源(大罪)」という観念がある。
それは、人間を不道徳に導く感情や欲望を指しており、傲慢pride、強欲greed、嫉妬envy、憤怒wrath、色欲lust、暴食gluttony、怠惰sloth がある。
これらを主題に据えた傑作漫画に「鋼の錬金術師」があるが、そこで「グリード(強欲)」というキャラクターがこんなことを言う。

個人的にこのセリフは非常に興味深い。なぜなら、次のような重要な問いに直面させられるからである。
つまり、われわれを突き動かす〝欲望〟とは何であろうか?という問いである。
その疑問に、明晰な論理と文章力、そして豊富な具体例をもって実に詳細な説明を与えてくれるのが『幻想の未来』という本である。
すべての生物には、行動規範としての「本能」がある。しかし、人間はそれが壊れている。本能が壊れたままではこの世界でどのように振る舞っていいかわからない。だから、本能の代わりに「自我」というものを造った。
それが岸田精神分析の出発点である。
そして「欲望」とは、その自我に発する。もっと言えば、作り物であるがゆえに本質的な不安定さを抱える自我を、安定させるための行動を起こすものを「欲望」というのである。
例えば、「クローズZERO」の世界観に出てくるような血気盛んな攻撃欲の強い者は、自我の不安定の原因を「自分は他人を腕っぷし一つで屈服させられる」という物語に託している(攻撃本能とか破壊衝動のエネルギーが人より大量であるとかそういうことではないのだ)。
また、財産欲・金銭欲の強い者とは、自我が不安定なのは「自分にはまだ金が足りてないからだ」と思っている者である。彼らは客観的に見ていかに大金持ちであろうと主観的に「もう十分! これ以上儲ける必要はない」と思うことができない。
知識欲、異性にモテたいという欲、その他あらゆる欲も同様である。
どれだけ知識を得てもこの世界には不可避的に個人では到達できない知識があるから、そしてそのことが日々生きているだけで必ず目に入ってくるから、「ああ、私にはなんて知識がないんだ、、、もっと勉強して賢くならなければ」と思い、さらにまた勉強をするということがあるし、「自分は人よりモテる」という自我を構築してそれを生きている人間は、その証拠を現実世界に見いだそうと他者と性行為に至る道筋を何が何でも達成してやらなければ気がすまない場合もある。
『幻想の未来』では「自我」や「欲望」という概念について、緻密な論理を一つずつ積み上げていく。
すると、不思議なことにこの世界のあらゆる事象に説明がつくのである。
納得せざるを得ないのである。
どのような角度から「この場合はどうなるのか?」と疑問をぶつけてみても、論理に綻びがない。それがすごいのである!
ただし。この本を一読してすべて理解できると思ってはいけない。しばしば良書がそうであるように、繰り返し読み、また現実を観察し、またその本に立ち返ることでさらなる発見と気付きがある。少なくともD氏はこれまでそのようにして本書と付き合ってきたし、これからもまた、そのように付き合っていくのであろう。
本書を手に取り真剣に内容について考える人がこの世界に増えれば、世の中はきっとよくなるに違いにない。
(なぜ誰もが手に取るべき名著としてこの世界で有名になっていないのか、D氏にはさっぱり分からない)
自分や他者の行動原理を理解したい世の紳士淑女はすべからく『幻想の未来』を手に取るべきである。絶版だけどね!!!
1-2.『幻想の未来』の概要と問題意識
簡単に本著の概要と岸田秀の問題意識をまとめておこう。
■概要
本書『幻想の未来』は、1983年~1984年の『文藝』に12回で連載された文章がまとめられたものである。岸田秀が自ら「一番精根込めて書いた本」と語っている。
驚くべきことに、講談社学術文庫版の解説は、日本における最大のフロイト学者で精神医学会の大御所・小此木 啓吾である!
ここから、岸田秀の精神分析理論がいかに当時から無視できなかったものか読み取れようというものである。
■目次
『幻想の未来』の目次は以下の通り。
・対人恐怖と対神恐怖
・引き裂かれた人間
・「甘え」の弁明
・「卑屈さ」の研究
・ふたたび自我の問題
・「真の自己」
・自我と欲望
・自我の支えの否認
とりわけ、後半に位置する章「ふたたび自我の問題」「『真の自己』」「自我と欲望」で展開される自我論の鋭さ、明晰さたるや尋常ではない。
岸田秀の著作の中でも最も才気煥発している。彼の人間理解の深さ、正確さ、緻密さはものすごいものがあるし、それを他者にわかりやすく提示できる文才もまた、異常なレベルに到達している。
1-3.『幻想の未来』から名言を紹介!
そんなおすすめ第1位の名著『幻想の未来』のD氏基準の名言を紹介しよう。
岸田秀『幻想の未来』(p.96「『卑屈さ』の研究」)より
岸田秀『幻想の未来』(p.182-183「自我と欲望」)より
D氏おすすめ第2位『フロイドを読む』―血の通ったフロイト精神分析学の解説書―
2-1.『フロイドを読む』をおすすめする理由
次に、D氏おすすめの岸田秀作品 第2位は『フロイドを読む』(1991)である。
この作品はタイトルにあるごとく、岸田秀がいかにフロイトを読んだか、について論じた本である。いや、もっといえば、フロイトの理論を使って岸田秀が自らの神経症をどうにか理解しようとした、その闘いの記録である。
岸田秀がフロイト理論に自らの実体験をひとつづつ当て嵌めて理解していく過程で、そこには血の通ったフロイト理論への理解が生まれる。
特に秀逸なのは、「人間にとって現実とは何か?」を突き詰めて考えている「現実喪失」の章である。
現実とはなにか? という問題は考えてみるとおもしろい。
人間という種族において、個々人が知覚しているいわゆる「現実」とは、客観的物質世界とは異なる。
なぜなら、それは個々人にまったく別々の、個別具体的なものとして表象されているからである。
Aさんにとって貴重なものが、Bくんにはごみであったり、Bくんがおもしろいと思った対象がCちゃんにはくそつまらなかったり、Cちゃんがかっこいいと思った俳優がAさんには路傍の石ころみたいに映るということがあり得る。
それはつまり、AとBとCとDそれぞれの眼に(あるいは心に)映っている「現実」がまったく違うということなのである。こんなことは至極当たり前であり、今更書くほどのことでもないかもしれない。
しかし重要なのは、人間にとっての「現実」はそのように、個々人が勝手に意味付けし、自分だけの世界として構成しているものであるからこそ、時に壊れることもあるし、あらたに造り換えられることもある、ということなのである。
なぜそのようなことが生じる余地があるのか?
それはもちろん、『幻想の未来』紹介時に述べたように、後天的に造り上げられた「自我」によって、「現実」が構成されるためである。(おもしろい!)
例えば岸田秀はこんな例を挙げる。
「喉が渇いて水を飲みたい」という欲求と「愛されたい」という欲望を考えてみてほしい。
前者は生理的な欲求であり、それはどれほど水を飲む幻覚を見たとしても実際に水が体内に入って生理的条件が変化しない限り満たされることはない。
しかし後者はどうか? 愛されたい欲望は身体的な生理的条件が何ら変化しなくても、愛されているという認識を得ただけで一応は充足される。
この例ひとつとっても、人間にとっての現実は「ズレる」余地があることがよく分かるというものであろう。
つまり、「欲望」の充足には必ずしも客観的(物理的)現実世界の現象が伴っていなくともよくって、各個人の内的な世界においてそれが満たされたと感じられることが全てなのである。
先の例をとれば、実際に他者が自分を「愛している」かどうかは確実に知ることは不可能であるが、そのように自分が受け取れた時点で、その欲望は満たされることになる。
2-2.『フロイドを読む』の作品概要
本書『フロイドを読む』は、1990年~1991年の1年間に『Imago』という雑誌に12回で連載された文章がまとめられたものである。
解説の竹田青嗣(哲学者)のことばに、D氏の感想も軌を一にしているので引用するが、「フロイト理論の核心的なアイデアを知りたい人は、「自我」の理論については岸田氏の『幻想の未来』を、神経症の理論についてはこの『フロイドを読む』を読むといい。これほど適切によくフロイト理論のエッセンスをつかみだしている本をわたしはほかに知らない」(p.226)
まさにその通りなのである!
■目次
『フロイドを読む』の目次は以下の通り。
・フロイドとの出会い
・強迫観念と行為化
・目立ちたがり
・自己分析
・反復強迫と転移
・恩着せがましさ
・対象選択
・現実喪失
・現実喪失と固着
自分という存在をもっとよく知りたい人は「自己分析」を一読することをおすすめする。「ビッグファイブ性格診断」や「遺伝子検査キット」などであなたの存在を知ることはできやしないと断言できるけれど、岸田秀が提示する自己分析の方法は、必ずあなたという存在の理解に役立つ。これはD氏の実体験である。
というか、為にならない章は何一つないんですよ、ほんとうに・・・。
2-3.『フロイドを読む』から名言を紹介!
岸田秀『フロイドを読む』(p.191「現実喪失」)より
岸田秀『フロイドを読む』(p.71「自己分析」)より
D氏おすすめ第3位『ものぐさ精神分析』―岸田秀といえばコレ! な一冊。彼の名を世間に知らしめた新しい古典―
3-1.『ものぐさ精神分析』をおすすめする理由
最後に、D氏おすすめの岸田秀作品 第3位は『ものぐさ精神分析』(1977)である。岸田秀という著作家の作品で、本著ほど世間に認知されているものは他にないであろう。
それはもはや岸田秀=『ものぐさ精神分析』という等式が成り立つくらいである。
そして、処女作にはその作家のすべてが含まれるというが、岸田秀もまた、その例に漏れていない。
この『ものぐさ精神分析』には、彼がその後の執筆活動で展開するすべての思考(あるいはその萌芽)が込めているのである。
そしてまた、私が「岸田秀」を認知し、この人はすごい! と熱中することになった作品でもあるのだ。
本書がどのような点で興味深いのかを論じる前に、少し現代日本の思想史的な背景について記しておこう。
なぜなら、『ものぐさ精神分析』を世に問うて岸田秀という思想家が登場した意義(=図)を捉えるには、その文脈となる時代的・歴史的な流れ(=地)を理解しておくことが必要だと思うからである。
教科書的に言えば1970年代は、近代的理性・進歩・主体への懐疑を軸に、構造主義の遺産を継承しつつそれを超えようとする多様な試みが並行して展開された、思想的な「過渡期」として位置づけらる。
日本国内の状況に限ると、全共闘運動の退潮後、「政治の季節」から「思想・文化の季節」への転換が起きた。
吉本隆明、廣松渉らの思想的影響が継続していて、ニューアカデミズムの前夜として、フランス現代思想の本格的紹介が始まったのがこの時期である。
当時の日本の思想界を振り返ってみると、精神分析の知見を援用した本が次々とベストセラーになった時代であった。
土居健郎の『「甘え」の構造』(1971年)、小此木啓吾の『モラトリアム人間の時代』(1978年)……その中に『ものぐさ精神分析』もあった。
本書はのちに「ニュー・アカデミズム(ニューアカ)」の先駆けとも評されることになる。
伊丹十三が岸田思想に影響を受けて思想雑誌『モノンクル』を創刊し、ポップカルチャーへと接続する試みまで行われたというのだから、その熱狂ぶりが窺い知れよう。
本書の射程は、個人の自我論に留まらない。「日本近代を精神分析する」「国家論」といった、日本という国家そのものを精神分析の俎上に載せる社会評論までもが収められている。
つまり『ものぐさ精神分析』は、「個人の心」を解き明かす理論を、そのまま「国家」や「歴史」にまで適用してみせた、唯幻論というアクロバットの実演の書なのである。
この世界のあらゆる事象を精神分析をつかって広範に語りつくしているのが本書だが、個人的にもっとも唸らされたのが、「投影」のメカニズムを説明する下りである。
たとえば、Aは罪深いことをして自責を感じているが、その事実を否認し、自責の感情を抑圧する。
↓
Aは意識的には葛藤から解放される。
↓
しかし、抑圧されたものは外界へと投影され、外界の知見が歪む。
↓
Aは、自分は何も悪いことをしていないのにBが不当にも、自分を責めているように感じる。
↓
不当なBを攻撃してたたきのめせば問題は解決するとは思う。
↓
しかし、原因はAの心の中にあるのだから、Bをたたきのめしても、AはまたCとの関係において問題を惹き起こす。
問題の真の解決は、外界にいるBやCをどうかすることによってではなく、Aが心の中の葛藤を認識し、それに直面することによって得られる。
別の例も使ってみよう。AがBにチョコバナナクレープを奢ってくれるという。
それはAが今朝、付箋代わりに文庫本に挟んでいた1000円札を発見したという、偶然による気まぐれであって深い意図があるためではなかった。
ところがBは「は。こいつ甘美なものでおれを懐柔しようとしていやがる」と思った。
「さてはこの前Aの彼女とデートしたことを吐かせるつもりだな。その手には乗らないぞこの腐れ外道め」
このとき、Bは自らの心の醜さをAに投影し、Aを「腐れ外道」と判定しているのである。
この例はやや極端であることを認めるが、要するに、人間は「自分」を基準にしてしか他者や世界を理解することができない、ということなのである。
ということをこれほど端的に示した本はない。すばらしい!!
あなたもぜひ本書を手に取って、「他者(の心)に自分(の心)を見て認識を歪めていないだろうか?」と自問してみるとよいと思います。
3-2.『ものぐさ精神分析』の作品概要
■概要
本書『ものぐさ精神分析』は、月刊『ユリイカ』に、1年間連載された文章(1975年1月号~12月号)を中心にしている。
直近では中公文庫で増補新版が刊行された。(増補新版2024年2月)
■目次
・日本近代を精神分析する
・吉田松陰と日本近代
・国家論
・日常性とスキャンダル
・性の倒錯とタブー
・エロスの発達
・性欲論
・性的唯幻論
・恋愛論
・何のために親は子を育てるか
・擬人論の復権
・時間と空間の起源
・言語の起源
・現実と超現実
・精神分裂病
・一人称の心理学
・心理学者の解説はなぜつまらないか
・心理学無用論
・ナルチシズム論
・自己嫌悪の効用
・セルフ・イメージの構造
・詩人のなりそこね
・わたしの原点
・自我構造の危機
・我発見被殴打的根本原因
・忙しい人とひまな人
・一期一会
岸田秀自身は、どれか一つを読むなら「国家論」とあとがきで述べているが、私が個人的に好きなのは「日常性とスキャンダル」「ナルチシズム論」「セルフ・イメージの構造」である。
自己分析をするにあたってこれ以上の理論はない、と思っている。
3-3.『ものぐさ精神分析』から名言を紹介!
この不定的なイメージを守るためには、それを脅かす「抑圧されたもの」を他者へ投影しなければならない。……
「屈従的なのはおれたちではない、あいつらだ」。このように、セルフ・イメージが現実離れして歪めば、不可避的に外界の知覚も現実離れして歪む。
岸田秀『ものぐさ精神分析』(p.30-31)より
おわりに:「自我」を徹底的に考えぬいた稀代の思想家

以上、岸田秀に多大な影響受けてきたD氏が特におすすめの3作品を紹介した。
「良書の要約というものはすべて愚劣なものだ」(モンテーニュ『エセー』)という言葉があるように、この記事もまた、岸田秀の本の良さを1%も伝えられていないかもしれない。
だが、私がそうだったように、自分のうちがわにある感情や想いにことばを与えると頭も心もすっきりする、ということがあるものだ。それを岸田秀の本でぜひ体験してみてほしい。
ここまで偉そうに「自我」だの「欲望」だのを解説してきたが、正直に告白しておくと、この記事を書いているD氏の本棚には岸田秀の著作がほぼ全冊揃っている。
同じ本を文庫版と単行本の両方で持っているものもある。
先日、その本棚を見た妻に「これ、また同じ人の本ばっかり買ってない? もう読んだんじゃないの」と言われ、返す言葉がなかった。
思えばこれは、まさに『幻想の未来』で語られていた「欲望」の構造そのものである。
自我の不安定さを埋めるための行動が「欲望」なのだとすれば、D氏にとっての「岸田秀を集める」という行為も、知識欲というよりは、何かもっと不安定な自我を岸田秀という権威で裏打ちしようとする、極めて岸田秀的な現象だったのかもしれない。
つまりD氏は、岸田秀を読むことで自分の自我の借り物性に気づいたはずなのに、その気づきすらも「岸田秀を誰よりも読んでいる自分」という新しい自我の支えに使っている。
理論を理解することと、理論から自由になることは、まったく別の話らしい。
さいごに留意点。今回の記事を読んだあなたが興味本位で岸田秀の著作を1冊手に取ったとする。D氏がこんなに絶賛しているのだからおもしろいに違いない!と。
しかしいざ読んでみた結果、「なんだよ!ぜんぜんわかんないし、おもしろくない!」という感想をあなたが抱く可能性を否定するものではない。
私がどれだけ岸田秀の論考その他に魅了されていようと、皆さんはD氏ではないので、つまりD氏の人生を生きてもおらず、読書の背景となる経験がまったく異なるので、岸田秀のいっていることが全然ピンとこない、とおっしゃるかたもいるであろう。
しかし、それはそれである。私の責任ではございません。
ひとつ言っておくと、「自分」とその心(厳密には「自我」)のあり方について、多くの時間をかけて向き合ってきたことのない人には、正直岸田秀の理論は少しも理解できないと思う。
逆に、「自分」という存在について思考を積み重ねた人にとって、岸田秀は少しも難しくない。
自分を考えるタイミングに遅すぎることはない。今からでも岸田秀の本を手に取り、沈思黙考、自分自身の「自我」と向き合ってみることをおすすめしたい。
もれなく「めんどくさいやつ!!」というレッテルを貼られること請け合い!
だが、自分の心に詳しくなることが他者への理解にも繋がる。他者の心を分かりたい、と思うことができるあなたの手助けに、岸田秀の著作はきっとなる。
(他人の人間理解力をどうこういう前に、D氏自身の人間理解力を高めろ、という批判は甘んじて受け入れよう)
なんにせよ、これを今そこで読んでいるあなたと岸田秀との出会いのきっかけになれれば幸甚。
そしてD氏はこれからも岸田秀に少しでも近づけるように彼の本を読み続けるのであろう。
それではまた。
