S・T・コールリッジ(『夢の本』p.90)
今回紹介する本はこんな人におすすめ⇩⇩
- ボルヘスの入り組んだ世界観が好きな人
- 「夢」に漠然と関心を持っている
- まとまった時間が取れないので短い文章をちまちま読める本を探してる!
個人的な話。ふと思い立って図書館司書の資格を取ろうと考えた。
年末年始の話である。さっそく近畿大学通信教育部図書館司書コースに出願し、先日テキストが届いた。
だい
わくわくしながら考えた末に、何の工夫もなく基本に忠実に『図書館概論』の教科書を手に取った。
そこでは「図書館とはなにか?」「図書館の役割とはなにか?」等の図書館学の基礎の基礎を学ぶ。
その中でも最初に解説されているのが「国立図書館」である。
日本における国立図書館の代表は、いわずもがな永田町にある「国立国会図書館」をおいてほかにない。
国立国会図書館といえば、長く館長を務めた 長尾 真 氏 が昨年5月にご逝去された。
偉大な人を失った。たいへん残念なことである。
長尾先生の図書館学の動画は今なお非常に興味深いものである。
閑話休題。
国立図書館というのは当然世界各国それぞれが持っている。
中南米の国アルゼンチンにもそれはある。200年以上の歴史を持つ図書館である。
参考
アルゼンチン国立図書館が開館200周年を迎えるカレントアウェアネス・ポータル
そのアルゼンチン国立図書館で館長を務めたのが、今回取り上げる『夢の本』の著者、ホルヘ・ルイス・ボルヘスである。
稀代の読書家、詩人、作家として世界中に勇名を馳せたボルヘスが編んだ、古今東西の「夢」をモチーフにしたアンソロジーの魅力を紹介しよう。
これを読めばあなたの日々をファンタジックな妄想で彩り、その挙句日常への不適応を起こすこと請け合いである。
(「そんな妄想に日常を浸食されてたまるか!」という退屈極まる現実主義者のことは知らない。)
目次
1.『夢の本』の基本情報
1-1.ホルヘ・ルイス・ボルヘスについて
ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)はアルゼンチン生まれの詩人・小説家である。
1899年から1986年まで(享年86歳)の生涯で、多数の独特な作品を世に送り出し、存命中から世界的な名声を得ていた。
膨大な図書を持つ教養ある父母の下に育ち、幼いころから文学作品に触れていた本物の「知識人」である。
簡潔で修飾の少ないことばでありながら迷宮のような入り組んだ構造の短編小説から滲み出す印象は、文学者というよりもむしろ哲学者に近い。
上記で、ボルヘスはアルゼンチン国立図書館長であったことを述べたけれど、それは親友ビクトリア・オカンポをはじめとする友人やアルゼンチン作家協会その他の団体による推薦または押し上げから実現したことであったという。
そのエピソードに拠るならば人間としても魅力的で人望があった、ということなのだろう。
要するにボルヘスは、家柄、知性・教養、作家としての才能、人望、地位、世界的名誉などあらゆる観点から「持てる者」だった。ように私には思われる。
1-2.『夢の本』の概要
今回取り上げる『夢の本』の客観的な作品情報は以下の通りである。
発売日 :2019年2月6日初版
出版社 :河出書房新社
レーベル:河出文庫(国書刊行会の世界幻想文学大系シリーズの一冊(1989)として刊行され、のち文庫化)
概要 :古今東西の神話・聖書・小説・詩などから「夢」を題材に編まれた113篇のアンソロジー
2.『夢の本』から個人的に好きなエピソードを紹介!
2-1.病める騎士の最後の訪問 ―パピーニ『逃げてゆく鏡』―
パピーニというのは20世紀のイタリア人作家、評論家、編集者だそう。
当然、本書でこの「病める騎士の最後の訪問」に出会うまで全く知らなかった作家であった。
この断章は「暗黒の騎士」という仰々しい異名を与えられている男の物語だ。
彼は「恐怖をまきちらす人」であった。存在するだけで人々を不安にするような、生命力の希薄さというか、幻想的で、掴みどころのないような男だった。
街の人々も彼のことを見知ってはいるようだけれど、それがどこの誰で、家族は誰なのか杳として知れない。まして、誰も彼に「なんの病気なのか?」などと体調のことを尋ねたりはしない。
「暗黒の騎士」はある日町に忽然と現れ、そして数年後のある日、姿を消す。
彼が姿を消すことになる前の晩、夜明けが近い時間に語り手である「私」のもとにやってきた。そして彼は独白する。
自分は夢の中の人物でしかないこと。
夢がつくられているものと同じものでできていること。
自分を夢に見る人がいるから存在できていること。
彼(夢を見ている人)が眠り、夢の中で私が行動し生き動きまわるのを見ていて、またこの瞬間にも私がこのことをあなたにすべて話すのを夢で見ているということ。
その人が私の夢を見始めた時、私は存在し始めたということ……。
この「夢の中の人間」というアイデアが個人的にとても好きである。なんとなく「ああ、そうなのかあ…俺も誰かの夢かもしらんのだ…」とマゾヒスティックな快感に浸りたくなる。この「生」が終わった時(=死)、ふと誰かが目覚めて「なんだ、長い夢だったんか!」と両手を上げて伸びをする。
私の、そしてあなたの人生も、実はそんな儚いものなのかもしれないではないか!
そういうモチーフで書かれたボルヘス自身の作品がある。
最高傑作との呼び声高い「円環の廃墟」(『伝奇集』収録)である。
興味があればこちらもぜひ手に取ってみてほしい。
2-2.魂と夢と現実 ―J.G.フレイザー『金枝篇』―
一般的なことからいえば、『金枝篇』はイギリスの社会人類学者ジェームズ・フレイザーによって著された未開社会の神話・呪術・信仰に関する文化人類学、民俗学の研究書である。
ヨーロッパのみならずアジア、アフリカ、アメリカなど世界各地で見られる様々な魔術・呪術、タブー、慣習などを、フレイザーもっぱらが史料や古典記録、あるいは口伝から収集していて世界的にも評価されている。
「魂と夢と現実」ではブラジルやアフリカ、ボリビアやマレーシア・ボルネオ島などの先住民が持つ「夢」についての考え方を紹介している。
「実際、眠っている人の魂はその肉体を離れてさまよい歩き、いろいろな場所を訪れ、さまざまな人に会い、夢の中で見ていることを実行するという風に考えられている。」
そういった捉え方を「前近代的だ」と一蹴するのは簡単だ。
だが、現代社会に跳梁跋扈している「夢占い」の類がいったいそういう夢観からどれだけマシになっているというのか? 怪しいものである。
「夢」というのはいつの時代も人間にとっての「謎」であり続ける。
2-3.宝玉の果てしない夢 ―曹雪芹『紅楼夢』―
お次は中国清代の作家・曹 雪芹(1715頃~1763頃)の作品とされている自伝的小説『紅楼夢』から。
「宝玉は自分の屋敷の庭とまったく同じ庭にいる夢を見た」
そういう一文から始まるこの断章は、まさにメビウスの輪のような構造で、真面目に読んで厳密に想像しようとすればするほど頭がこんぐらがってくる。
映画でいえば「インセプション」みたいな感じだ。
簡単に概要を説明すると、宝玉という名のいいとこの坊ちゃんが、自分の屋敷の庭にいる夢をみる。
彼の家の女中たちが「おや?あそこにいるのは宝玉様じゃない?」と彼に近づいてくるのだが、「なんだ、人違いだった!」という。
宝玉は自分の女中にからかわれているのだと思った。
しょげかえった彼はよく見知った自宅の中庭を抜け、自分の部屋に入った。
そこに、若い女中に囲まれて若者が横になっていた。彼に女中が問う、「どんな夢を見ていたのですか?」
そして若者は言うのだ。
「とても奇妙な夢を見たんだ。夢の中で自分が庭にいて、お前たちはぼくのことを知らないと言うし、ひとり後にとり残されてしまったんだよ。後を追って家まで来ると、別の宝玉がぼくのベッドで眠っているのに出喰わしたんだ」
今しがた自分が体験したことを「夢だった」と語るもう一人の自分を眺めている、この自分は夢なのか現実なのか?
素晴らしいメタフィクション性! 円環性! ボルヘスがこの断章を選ぶのも納得である。むしろボルヘスが書いたものだと言われても何ら違和感ないほどだ。
2-4.コールリッジの夢
今回紹介する作品の中では唯一ボルヘス自身による文章である。
冒頭に引用した「証し」(夢から花を一輪もち帰る)を書いたのが、イギリスの詩人 サミュエル・テイラー・コールリッジ(1772~1834)である。
『夢の本』を通して読むと、ボルヘスがコールリッジに多大な影響を受けているのであろうことが容易に察せられる。いたるところで彼の名前が出てくるからである。
そして「コールリッジの夢」では、コールリッジが夢からヒントを得た幻の詩について考察することで、ボルヘス自身の《夢》観が端的に表されている。本作でもっとも重要な作品であると個人的には考えている。
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ところで、ボルヘスはこの文章で《夢》に関してどのような思考を展開しているのか?
コールリッジに「クビライ汗」という五十数行からなる押韻不定型詩があるという。これは、《宮殿》をイメージしている、いわば未完の傑作であった。
この詩は、夢の中で完成された「視覚的イメージとそのイメージを表現する言葉」としてコールリッジに降りてきた。
コールリッジはそれを三百行の詩として作り上げたと確信し、目覚めた。彼はそれをはっきり覚えていて、早速書き出した。だがそこで不意の来客があって執筆を中断せざるを得なくなり、客が帰ったあとにまた書こうとしたら残りの部分を思い出すことができなくなってしまった。そういうわけで、五十行たらずしか書かれなかったという経緯がある。
しかし、忘却を免れたその詩の断片でさえも、他の詩人に「英語による音楽の最高の模範」と評されるほどであった。
夢から創作のヒントを得る、ということ自体はそれほど新奇なものでもなく、むしろ芸術家からよく聞かれる話であるが、コールリッジの傑作(の断片)を生んだ夢が驚異的である事実がのちの判明する。
コールリッジは1797年ないし1798年に《宮殿》の夢をみて、1816年に上記のエピソードとともにそれを発表した。
その20年後、パリで『集史』という世界史の本の翻訳が一部刊行された。これは14世紀にラシード・ウッ・ディーンによって書かれたもので、ペルシア文学について詳しいものだった。
そこにはこういう記述があるという。
「クビライ汗は夢にみて記憶の中にとどまっていた図面に基づき、上都の東に宮殿※を建てた」
※今なおモンゴルに遺跡が残る宮殿
つまり「モンゴルの皇帝が十三世紀に宮殿の夢を見て、その幻に従い宮殿を建てる。十八世紀には、その建築が夢に由来するものであることを知るすべもなかった英国の一詩人が宮殿の詩を夢で見」た。このことをどう解釈すべきか? とボルヘスは問う。
そして彼は、フビライ汗とコールリッジの夢の背後に超越的な存在を仮定するのである。
《夢》が時空間を越えてある個人に共有されるという、この想像力がきわめて魅力的であると感じるのは私だけであろうか?
2-5.王の夢 ―ルイス・キャロル 『鏡の国のアリス』―
最後は言わずと知れたナンセンス児童文学の名作『鏡の国のアリス』(『不思議の国のアリス』の続編)の一場面である。
短いのでそのまま引用しよう。
「今夢を見ていなさる。誰の夢だかわかるかね?」
「誰にもわからないわ」
「あんたの夢だよ。それで、もし夢を見終わったら、あんたはどうなると思う?」
「わからないわ」
「消えちまうのさ。あんたは夢の中の人間。だから、その王様が目を醒ましたら、あんたはろうそくのように消え失せてしまうのさ」
原作では、第4章でトゥィードルダムとトゥィードルディーの兄弟にアリスが絡まれるシーンである。
赤の女王が木の下で眠っているところへ連れていかれたアリスは、そこで上記のように「お前は夢の中の存在にすぎないよ」といじめられるのだ。
こうして見ると、世界中、どの時代でも「夢の中の人間」という想像は創作者の脳に取り憑いてきたのだなあという気がする。
3.感想とまとめ
ボルヘスは《夢》について、独特の意見を持っていた。それは「コールリッジの夢」に端的に示されているような、いわば“共通夢”ともいうべき、過去から現在そして未来を含む全人類に共有されている夢である。
われわれは夜ごと夢を見ているけれど、それはわれわれの脳みそからじんわりにじみ出て、隣人の夢とつながり、それが地域、国家を超え、世界中の人間の夢と溶け合う。
そんなイメージが湧いてくる。
その巨大な夢は個人とは独立して存在し、私たちはその断片を垣間見れるにすぎない。
そうであったら、なんともおもしろいではないか!
ところで、この《夢》のアンソロジーに含まれていない夢に関する作品がある。
精神分析学の創始者フロイトの代表作の一つ『夢判断』(1969)である。
世界的に知られたこの作品を、なぜボルヘスはアンソロジーに加えなかったのか気になったが、上記で示した彼の《夢》観を鑑みればそれも当然のことに思われる。
例えば、フロイトにおける《夢》とはどのようなものであるか?
『コンサイス20世紀思想事典 第2版』(1997)の【夢】という項目を参照してみよう。
要するに、フロイトにとって《夢》とは、あくまで個人に属するものである。
個人が経験したこと、抱いた欲望や感情、そういったものが形を変えているというのがフロイトの解釈なのだ。
したがって、没個人的な《夢》観を信じるボルヘスは「徹底したフロイトぎらい、精神分析ぎらいで通っている」(澁澤龍彦『西欧作家論修正 下』2010)のも納得されるのである。
そういった思想上の《夢》の比較も興味が尽きないところである。
(私自身の《夢》観がボルヘスとフロイトどちらに寄っているのかはここでは論じない。)
なんにせよ、西洋から東洋の神話・聖書・小説・詩などから「夢」をテーマに編まれた113篇のアンソロジーを足掛かりに、読者諸賢がそれぞれの新たな妄想世界へ拓かれんことを祈念しつつ筆を擱くこととする。
それではまた。