【人格心理学】「飽きっぽい子」も「ねばり強い子」も存在しない?!【岸田秀のエッセイから考える習慣化について】

子供というものは、親や教師の言うことに従うのではなく、勝手なときに勝手な理由で親や教師と同一視し、その行動パターンを取り入れて内在化するものであるから、子供のを変なふうに育てたくなかったら、親や教師は、子供に取り入れられたら困るような行動パターンをみずからは慎む以外にいかなる方法もない。

岸田秀「あきっぽい子とねばり強い子」より


今回紹介する本はこんな人におすすめ⇩⇩

  • 子育てをしているすべての親
  • 保育や教育に携わる職業についている人
  • 人格心理学に関心を持っている人
Key words
飽きっぽい子の特徴/ねばり強い子の育て方/子どもの興味を引く方法/習い事の継続について/習慣化/継続力/自己肯定感の大切さ/子育て/発達/人格心理学/性格/幼児教育

ある日、妻とEテレ「すくすく子育て」を見ていた。
参考 すくすく子育てすくすく子育て この番組は世の中のお母さんお父さんでご視聴の方も多かろうと思うが、私も2歳になる子を育てる親としてたいへん参考にさせていただいている。

しばしば興味深いテーマを扱っているのだが、そのときのテーマは「習いごとって必要?」であった。

番組内容の詳細は以下のリンクをご参照いただくとして、常のごとく私と妻に議論を巻き起こした。

参考 習いごとって必要?すくすく子育て情報

D氏

娘にどんな習い事をさせるべきか?
スポーツでも音楽でも興味を持てるものを幅広く経験させたい

D氏

継続することで将来的に自我の支えになる、という観点から文化方面の習い事がいい。スポーツができる期間は文化方面より相対的に短い
バイオリンとかバレエがいいよね。習い事を通じて集中力、自己表現力が身につくことも期待できそう

D氏

何かを習うだけじゃなくて、続けることが大切だと思う。継続力を育むことがすべてに優先する
子供たちには好きなことを習わせたいとも思うんだよね

D氏

大切だね。好きなことを習っているとやる気も出て継続しやすくなるかもしれない。でも好きなことだからといってやらせたにもかかわらずすぐに習いごとをやめてしまうこともあるから結局習慣化がすべてだね
でもさ、継続力ってどうやったら身につくんだろう?

D氏

何かを毎日やること。すると自分自身がそれを欠かせなくなってくる
それはでも、話が逆じゃない? 何かを毎日やるならそれはすでに継続力があるってことじゃん。確かに一度やり慣れたことはやらないと不安になるような感覚はあると思うんだけど

D氏

ここでいう毎日やる、っていうのはさあ、最初はある程度強制力をもって親とかがやらせることも含むんだよね。子どもの内発的動機が育って、あとはもう何も言わなくても大丈夫ってところまではサポートしながらの継続なんだと思う。で、継続するためには目標が明確でなければダメだ
確かに目的が明確でないと継続するモチベーションが湧かないもんね

D氏

それに最初は楽しいとかじゃなくて、ただただやり続けることが大事なんだ。何事も最初は苦手だけどやり続けるうちに自分に合ったやり方や方法が見つかる
そういうもんかもね

D氏

上手下手向き不向きを越えて、何かを続けてきたその過程が将来的にも自分自身の支えになる

そんな話をした。

そういうわけで、今回は子どもの「継続力」あるいは「習慣化」を考える上できわめて示唆に富んだエッセイをとりあげてみよう。

例のごとく、精神分析学者の岸田秀の、『幻想に生きる親子たち』に収録されている「あきっぽい子とねばり強い子」(p.59-65)である。

「あきっぽい子とねばり強い子」の概要

まずは「あきっぽい子とねばり強い子」でどのようなことが論じられているか、概要を追ってみよう。

前提を疑え!

岸田秀はまず、現実に「あきっぽい子」「ねばり強い子」が存在する、という前提を疑う。

「え? 飽きっぽい子も粘り強い子も普通にいるでしょ!」

そう思った方はまず、D氏が「性格」について論じた以下の記事を参照してほしい。
【自己分析の方法】性格とは〝落差〟である そこでD氏は次のようにまとめている。

性格とは、

  • 一回性の態度(行動、言動)ではなく、繰り返される態度である。
  • 状況と不釣合な態度である。言い換えれば、自分と他人との間にある“落差”である。
  • 客観的実体ではなく、他者との関係性である。

とりわけ重要なのが、「客観的実体ではなく、他者との関係性である。」という点で、性格というのは個々人に身体的基盤(例えばなんらかの脳内物質が人より多いとか少ないとか)を持っているわけでない。あくまで自分と自分以外の“関係性”によって生じるのである。

「あきっぽい」も「ねばり強い」も性格特性としての表現であるから、当然そこにはそう“判断される子供”と”判断する誰か”がいるわけである。

岸田秀は言う、

およそ、性格判断というものには、判断される者についての、判断する者の何らかの価値判断が伴っている。無色透明で公平で客観的な性格判断というようなものは存在しない。

またしても先のブログ記事からの流用であるが、Aの性格についてB、C、Dが語るとき、それはAについての性格よりも「Aをそういう性格だと見た」B、C、Dについてより多くを語るのである。

Aを「優しい」とみたBは、Aが他人に優しさを見せた状況ではそう行動しない、というBの性格を表すし、同じAの行動を「不親切」とCが判断する場合もある。それはCが同じ状況でより親切にふるまうことを示すだけであり、Aの性格ではない。あるいはAの行動に対し、Dは「優しい」とも「不親切」とも思わない。当然すぎることは意識に浮かばない。この場合も、Dの行動の基準がAのそれと一致していることがわかるだけである。

要するに、性格を判断する場合、判断する側の価値観が反映されることはほぼ避けられず、完全に公正かつ客観的な判断は存在しない。つまり、性格判断にはいつだって偏りがあるということなのである。

だから、誰かが誰かを「あきっぽい」とか「ねばり強い」というとき、彼をそう見ようとする自分とはなにか? がまず問われねばならない。

「あきっぽい」性格と「ねばり強い」性格とはなにか?

具体的にしてみよう。例えば、子どもを「あきっぽい」性格と評する存在として親や教師その他の近しい大人が考えられる。

彼らがある子供を「あきっぽい」と評するのはどんな時か?

爪を噛む、指をしゃぶる、他の子にいじわるをする、トレーナーなどの袖を噛む、いきなり大きな声で叫ぶ、髪の毛をむしるなどの行為を子どもがすぐにやめた時、大人たちは彼を「あきっぽい」というだろうか?

おそらく言わないであろう。では逆に、彼らは「ねばり強い」のか? ある行為を継続的に行っているにも関わらず、おそらくそのようには評されないはずだ。

一方、子どもの行為が勉強や学習、お稽古事、スポーツ、買ってあげたオモチャで遊ぶ、家事のお手伝いなどであればどうか?

それらをすぐに止めてしまえば彼らは「あきっぽい」であろうし、継続的に取り組めば「ねばり強い」であろう。

以上から言えるのは
「あきっぽい子」:その子をそのよう評する大人(親や教師等)がやり続けてほしいことをやってもすぐやめてしまう子
「ねばり強い子」:その子をそのよう評する大人(親や教師等)がやり続けてほしいことに継続的に取り組むことができる子
ということになる。
※この場合の「あきっぽい」には暗に非難めいたニュアンスが込められていることも見逃してはならない。

その親や教師が好ましくない、やってほしくないと思っていること(先の例で言えば「爪を噛む、指をしゃぶる……」)をその子がすぐに止めるのであれば評価が逆転し、「素直で聞きわけがよい」とか「意志が強い」と言われむしろ褒められるはずであり、逆にその子が続けた場合には「しつこい」「頑固」「執念深い」と非難めいたことを言われるはずである。

ここから言えるのは、性格判断における問題は、常に判断される側というよりむしろ判断する側にあるということである。

要するに、誰だって、好きなことをやっているときは「ねばり強い」か「しつこい」のであり、好きでもないことをやらされるときは、「あきっぽい」か「あきらめがいい」のである。「あきっぽい」とか「ねばり強い」とかの性格傾向が何かホルモンやアドレナリンのような実体として子供の心の中のどこかに実在しているわけではない。

これは何度強調してもしたりないくらい重要なことだ。

我々はともすると他人や自分の性格を実体論的に、その人に内在しているものだと捉えがちであるが、実は「性格」に関する判断は常に自分が知らず知らず持っている価値基準に照らし合わせたものとなっている、ということを考慮しなくてはならないのである。

オトナたちの傲慢さと自惚れ

次に岸田氏は、ある行為・行動に対して「あきっぽい子」を「ねばり強い子」にしようとするオトナたちの傲慢さと自惚れを指摘する。

自分が親になってよくわかったのだが、自分の子どもに対して「これを身につけてほしい」「こんな人間になってほしい」という欲望には並々ならぬ強さがある。

親や教師には自分らのやらせたいことを継続できるような子どもにしたいという根強い願望があるのだ。

そのためには子がそれをやりたいかどうかではなく、今はたとえ子の意にそぐわなくてもいずれきっとその子のためになるのだと確信してやらせている場合が多い(さすがに子の将来に役立つ見込みもないことを強要する大人は少数派であろう。そう願いたい)。

だが、そのようにして子が大人の望むことを継続したとしても、満足を感じて喜ぶのは子でなく親または教師(=オトナたち)に過ぎない。

そもそも、子供にとって何がいいかを子供自身よりも自分のほうがよく知っていると思うことができるというのは、親や教師の己燃れもしくは傲慢である。そのような已惚れた傲慢な親や教くろみに従うことは、子供にとって不利で有害であるばかりではなく致命的である。千回に一回ぐらいは、親または教師が指示する道に進むほうが、子供自身の望んでいる道に進むよりも、結局は子供のためになったのではないかと考えられる場合もあるかもしれないが、自分の望んでいた道に進んだのなら、失敗したとしても、子供は、とにかく自分の意志を貫いたのだし、その自分が愚かだったのだから、あきらめをつけることができるが、その千倍はある逆の場合、すなわち、子供自身の望む道に進むほうが、親や教師が指示する道に進むよりも、子供のためにはよかったのではないかと考えられる場合、親や教師の指示する道に進んで不可避的に失敗したとき、子供は、後悔するほかにすることのないまったく救いのない人生を送らなければならない。

結局は性格傾向ではなく、「好き」の確立!

ここまで考えて岸田氏は、あることを継続的に続けられるか否かの分岐点を次のように結論する。

これは、「あきっぽい」とか「ねばり強い」とかの性格傾向があるかないかの問題ではなく、自分の好きなことがまだ見つからず、そこに混乱や葛藤があるかどうか、自分の好きなことがしっかりと確立されているかどうかの問題であろう。

現実に、一般的に言って誰もが「あきっぽい」としか言えない性格の人、あらゆることに手を出してはすぐに投げ出してしまうような人間はいる。逆にオタク(この言葉自体、好ましくない対象に執着しているヤツという非難の含意がある)と形容されるようなあることを始めるとその他のことが目に入らなくなってそればかりやり続けるという人間もいる。

繰り返すが、それは性格傾向があるか否かの問題ではない。自分の好きなことがしっかりと確立されているいるか否かが問題である。

おわりに

今回は「習慣」を考えるのにきわめて示唆に富んだ岸田秀のエッセイ「あきっぽい子とねばり強い子」をとりあげ、紹介した。

これまでの議論をごくシンプルにまとめると次のようになるだろう。

・性格とは、客観的実体ではなく、他者との関係性である
・「あきっぽい」とか「ねばり強い」という性格特性にも、そう“判断される誰か”と”判断する誰か”がいる
・あることを継続的に続けられるか否かは「自分の好きなことがしっかりと確立されているかどうか」の問題である

私も幼い子を育てる親として、いかにわが子に良い習慣を身につけさせるかは極めて深刻な問題である。

しかしそれ以前に、「習慣化について論じる前に、まず自身のブログ執筆を習慣化せよ」というお叱りの言葉がどこかから飛んできそうだが、そういった不都合な指摘には一旦耳を塞ぐことにして筆を措こう。

それではまた。

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