こんな記事がある。
参考 本を読んだときに「面白かった」だけで終わってしまう人と「言語化できる人」の決定的な差DIAMOND onlineここで、『独学大全』で有名な読書猿さんがこんなことを言っている。
批評は、目の前にあるテキスト(あるいは作品)に書いてること(表現されていること)を細かく正確に捉えることの上にしか成り立たない
全くその通りであると思う。しかし、それだけではない。
そもそも上記の記事の中で読書猿さんが受けた質問はこんな内容であった。
「批評の手引書」を探しています
こんにちは。いつも楽しくブログやツイッターを拝見しています。私は、小説を読んだり、アニメを見たりするのが好きです。しかし、面白い作品に出会った時に、「どこが面白かったのか」「なぜ面白かったのか」を分析・出力できずに、ただ「面白かった」で済ませてしまうことがよくあります。
できれば私も書評やアニメ批評の専門家のように、深く作品を味わい、人に面白さを伝えられるようになりたいと思っています。
さて、質問です。私は上記の理由から「批評の手引書」を探しています。そこで、おすすめの本があれば教えてください。
この質問者は、面白い作品に出会った時に「分析」ができないから、「批評」の手引書を探している、という。どうやら何らかの方法論をもって作品について他者へ語りかける「技術論」を求めているようである。
確かに、例えば岡田斗司夫のようにある作品を「どんな観点から面白いのか」を言語化できれば楽しいことは間違いない。
だが、作品について言語化するときに最も重要なのは、私見に拠れば、技術ではない。
「どれだけ自分の人生と紐づけてその作品に感動・感銘を受けたか」
という、作品を受容した際のきわめて個人的な感情である。
言い換えると、自分の人生経験などからその作品に共感や感情移入せざるを得なかったその必然性である。
「いわれなき註解となってきみはそこへ佇(た)つな」(井口時男)
そこで紹介したいのが、文芸評論家・井口時男(1953~)の、短いけれどものすごく面白い以下の評論である。
参考 「いわれなき註解となってきみはそこへ佇(た)つな」日本文学 56 (8), 2-10, 2007井口時男という人の著作や人物について私が詳しいかと言われると全く詳しくないのだけれど、私が現代日本における保守的な思想家として信頼に足る文芸評論家だと思っている浜崎洋介さんを東京工業大学大学院時代に指導していた、ということで知ったのが最初だったと思う。
細かいことはさておき、井口さんはとても魅力的な文章を書く人である。
上記で紹介した論文の結論を私なりにすごく簡単に言ってしまえば、こうである。
特に文芸作品について評論する、という行いは、自分=主体と切り離すことはできない。
かといって、ことばは間主観的なもの、つまり他者性を内蔵するものであるから、それから遊離しすぎる恣意的な読みは許容されない。
大切なのは、その作品に心動かされた自分とはなにか? についての理解が先行しているかどうか、なのである。
ということを踏まえて、以下で引用する井口氏の素晴らしい文章を読んでみてほしい。
熱なき理解はただの幻滅に終わる
「文学作品には読み方というものがあって、その読み方を教えるために教員の授業が必要だ、という。だが、文学作品に対しては、読み方以前に出会い方が大事なのだ、と私は思う。読書は、いってみれば恋愛みたいなもので、出会い方に失敗すると、どんなに「正しい」理解を示したところで何の意味もないものだ。熱なき理解はただの幻滅に終わるだろう。」
高校の国語教員をしていたという井口時男氏は、自分が教科書に載っているテキストと学生との〈出会い〉を邪魔しているのではないか?
本当は自分=教員が介在しないで作品に出会った方が、感動的で、学生自身の人生に深く影響を与えられたのではないか?
そんなふうにおもっていたそうである。これは、私も個人的な経験からその通りだと思う。私が私の人生にとって「これは好き!!!」と言えるような作品との出会いはつねに個人的なものであって、教員の注釈・解釈などは経ていない。
だれだってそうであろう。しかし一方で、自分が深く敬愛する人が「この作品はとてもいいよ!」と言っていて、彼の価値観というフィルター越しに眺めた作品が異様に魅力的に映って、それが出会い=作品にふれるきっかけになる、ということもある。
いずれにしても、作品を鑑賞するときなにより大切なことは、その作品をどれだけ「正しく見るか(読むか)」なのではない。
自分にはその作品がどのように映ったか、ということなのである。
冒頭の話に結び付けて言えば、その作品がどういう構造でなにがどうなっているか、ということを語るよりも前に、なんでこの作品について自分は語る必要性を感じるのか、ということの自覚が先にあるべきなのである。
作品という他者の言葉と読者の「私」との化学反応の生成物
「作品の意味を事実確認的(コンスタティヴ)に語ること、すなわち、読者たる自分を古典物理学の観測者のような超越的立場において語ることはできない。言葉の意味はたしかに言葉からやってくるが、読者が交渉しなければ意味は立ち現れないからだ。読者は作品という地中から意味という埋蔵物を掘り出す考古学者ではない。読むたびに読者は、そのつど新たに言葉との交渉を開始し、そのつど新たに意味の世界を形成する。読書は読者の主体的ないとなみであり、一回的な創造行為なのだといってもよい。文学の読みは「真理」や「真意」の復元を目指さない。読みは「創造」を目指す。しかし、そこに他者の言葉がなければこの創造行為はありえない。だから、読者が読み取る意味は、いわば作品という他者の言葉と読者の「私」との化学反応の生成物である。」
例えば、誰もが知っている芥川龍之介「蜘蛛の糸」という作品がある。
参考 「蜘蛛の糸」(芥川龍之介)青空文庫このごく短い作品を精読してみよ、といわれたらまず、次のように読むことができる。
1. 主人公とその人間関係
・主人公:陀多(かんだた)
→ 地獄の罪人(大泥棒だが、一度だけ善行=蜘蛛を助けた経験がある)
・主人公をめぐる主要な他者:御釈迦様
→ 極楽から陀多の善行を見て、ひそかに救済の機会を与える
・その他:地獄の罪人たち
→ 陀多同様、地獄でもがいている存在
2. 事件の概要(小説的事件の展開)
・極楽の蓮池から,御釈迦様が地獄の陀多を見つける。
・陀多がかつて蜘蛛を殺さず助けた善行を思い出し、御釈迦様が蜘蛛の糸を垂らす。
・陀多は蜘蛛の糸を上って脱出を図るが、他の罪人たちもあとに続く。
・陀多は「この糸は自分のものだ」と叫び、他の罪人を拒絶した瞬間に糸が切れ、地獄に逆戻りする。
3. 事件の変化と意味(外面的・内面的分析)
〈外面的変化〉
・場所の変化:極楽→地獄→蜘蛛の糸をのぼる→再び地獄
・状況の変化:絶望(地獄の苦しみ)→救済の希望(糸を登る)→再転落(糸が切れる)
・人物の行動:自己中心的行動(独り占めの心)→転落
〈内面的変化〉
・陀多の心の中で「独り救われたい」という自己愛・自己中心性が全開となる
・希望→欲望→恐怖→絶望という感情の推移
4. 一番大きな変化
・最も注目すべき変化:「自己中心的な心が、救いの機会を自ら断ち切った」という点
→ <救済の希望>から<再び地獄へ>。
→ 行動のきっかけは、他者に対する共感や連帯を持てなかったこと。糸が自分だけのものであると強く主張した瞬間に、糸が断たれる。
5. 物語の「意味」
・事件を通して、「人間の自己中心性」「本当の善とは何か」「救いの条件とは何か」というテーマが示される。
・陀多の一度の善行(蜘蛛を助けた)が与えられた救済の糸。しかし、自らの独善(他者を拒絶)でその糸を絶った。
・すなわち、「最大の変化」は、陀多に“救いの可能性”が与えられたこと、そして“その可能性を自らの心によって失った”ことである。
構成まとめ
一 極楽の御釈迦様
→ 地獄の陀多を発見→救済を決意→蜘蛛の糸を下ろす(きっかけ:陀多のかつての善行)
二 陀多の地獄での日常
→ 糸に気づき上り始める→他の罪人もあとに続く→自己中心を叫んだ瞬間糸が切れて転落(救いへの希望→独善→希望の喪失)
三 御釈迦様の観察→無慈悲な陀多の心への嘆き
→ 変わらぬ極楽の静けさ(事件の総括・仏のまなざし・極楽と地獄の対比)
さて、ここまでくるとなんとなく、日本の国語教育における試験問題として提示された場合はたいていのことに答えられそうな準備が整った気がする。
しかし問題は、だからといってこれが自分という人間にとって大切な作品になるか? ということである。
ここまでの作品構造分析で「めっちゃおもしろ!」と思える人は(皆無ではないにしても)それほど多くはないのではなかろうか。
だが、ここで少し、自分なりの関心にひきつけて作品を考えてみる。
例えば、
「そもそも御釈迦様とはなにか?」
「お釈迦様は陀多の心に自己中心的な、〈我執〉が残っていることを見抜けなかったのか?」
などということが私は気になったりする。
なぜなら、宗教とか自分自身を縛る妄念=エゴイズムとはなんなのか? という関心が私の中にあるからである。
その問題意識に自分なりの回答を考えてみたりする。
「仏教における“御釈迦様”といえば、 歴史上の人物としては仏教の開祖であり、インドに実在した人物で、本名はゴータマ・シッダールタ(釈迦族のシッダールタ)だったよなあ。たしか、苦悩・生老病死の現実に悩み、29歳で出家・修行して35歳で『悟り』を開いて仏陀(ブッダ=目覚めた人)になった。世界宗教の一つであるところの仏教における神=倫理は、アジア的な神なわけだけど、それは西洋的な一神教の神(GOD)とはどのように性格が異なるだろうか?」
「日本語で“御釈迦様”と呼ぶ場合、単なる人間としてのシッダールタというより、悟りを開いた仏(如来)=最高の聖者、真理の体現者という尊称になってて、彼はすべての生きものが救われる道(仏道)」を説いた人、という含意があるなあ」
「仏教思想では、〈救い〉とは最初から“自動的に与えられるもの”ではなくて、その人の“因”と“心持ち”によって成就するか否かが決まる、という因果律があるわけだから、『蜘蛛の糸』でお釈迦様は、〈陀多がかつて蜘蛛を助けた善行〉を思い出し、〈できれば救い出そう〉と慈悲の心で行動したのだ。つまり、陀多の心を完全に〈善〉だとは見なしていないが、〈一度の善行〉を根拠に〈救済の機会(チャンス)〉を与えたと考えられるなあ」
「そうすると、お釈迦様は陀多の心に自己中心的な〈我執〉が残っていることを見抜けなかったのではなく、〈善行をした者には、ただちに救いのチャンスを与える〉という慈悲の立場から、糸を垂らした。そして、その救いを“本当に受け取る資格=善なる心”があるかどうかは、本人の行動によって最終的に証明される、という構造なんだ!」
「言い換えれば、〈自分だけ助かりたい〉という我執が残っていれば、たとえチャンスがあっても救われない。最初から見抜いて救わないのではなく、〈選択と変化の可能性〉に賭け、チャンスを与え、最終的な結果は本人の“今の心”に委ねたのだ。これは仏教の〈自業自得〉とか〈縁〉といった思想にも通じるものがあるなあ」
というところまでいくとようやく、私にとって「蜘蛛の糸」という作品は案外おもしろいぞ、という感情が到来してきたりする。
ようするにここで言いたいのは、、作品をどれだけ細かく正確に読んでいっても、そこから即自分に感情的に訴えてくるなにかを受け取れるわけではない、ということなのである。
井口時男氏のいう「読書は読者の主体的ないとなみであり、一回的な創造行為なのだといってもよい。文学の読みは「真理」や「真意」の復元を目指さない。読みは「創造」を目指す」とは、すごく浅いレベルで喩えればそういうことなんだろうとおもう。
文学体験は孤独の体験
「読書の陶酔は音楽や映画のもたらす陶酔とはっきり異なる。音楽や映画はわれわれの感覚を直接に刺激し、その刺激の直接性において多数での共有を可能にするが、読書には直接的なものは何一つない。共有される刺激は、ただ、紙の上に整然と配列された線条だけだ。それは文字である。だが、それを自分の知っている文字と認識したとたんに、すでに文字は意味作用を発信している。心を刺激するのはその意味作用だが、しかし、意味作用は各自の孤絶した心で受け止めるしかない。そして、言葉の意味作用というものは、言葉そのものの意味機能と心の側の蓄積された意味体験との相互反応によるものだから、同じ文字列をたどりながら、複数の心に同じ意味世界が形成されることは、厳密には、ありえない。その意味でも、文学体験は孤独の体験である。」
この表現はやや抽象的で、人によっては難解に映るかもしれない。
しかし、別になにも難しいことはいっていない。私なりに表現すれば、「同じ文字を読んでも、その語彙ひとつひとつとか文章の並びに対して各個人がイメージできるものは違うよね(差があるよね)」ということである。
例えば教室に40人の生徒がいるとする。
で、教壇に立つ教師が彼らに〝火事〟を想像してみてくれという。生徒はその指示通り〝火事〟を想像している。果たしてこのとき40人の生徒の意識にあるイメージ、それは心象とか表象といっても同じだけれど、そのイメージがぴったり一致しているかというとそんなことはありえない。
生徒たちがそれぞれ〝火事〟ということばで想像したものは、例えば場所や建物あるいは炎の燃え上がり具合なんかで全然ちがっているはずである。
もっといえば、直接火事の現場を見たことがあるかないか、ごく近い過去に火事かそれに類するイメージをしたかどうかでそのときの火事のイメージを細部にわたってできる人とできない人がいることが想像できる。
というように、たった一つの語彙に対しても人間それぞれ思い浮かべられる具体的なイメージが異なるのだ。
ただし、〝火事〟という一語で〈大量の水がクリスマスツリーを押し流す〉ということをイメージすることはあり得ない。何かが燃えている、という中核となるイメージだけはどの人間にも共有されている。その、ことばはそれを使用する文化圏の人間にある程度共通している意味内容を有する、という性質こそが「間主観性」というものであったりする。
そのようなことばの本質に根差した認識を前提に、井口時男氏は「文学体験は孤独の体験」というのであった。
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以上、作品のおもしろさを言語化するためにはどうすればいいか? ということ、井口時男の評論「いわれなき註解となってきみはそこへ佇つな」から考えてみたことをつらつら書いた。
皆さんもぜひ、読んでみてくださいな。
それではまた。
参考 「いわれなき註解となってきみはそこへ佇(た)つな」日本文学 56 (8), 2-10, 2007