目次
性格についての誤解
まずは世間によくある誤解を解くことから始めよう。
前提として、性格は個人の内側には存在しない。性格は固定的なものではない。
したがって、性格診断や性格テストとか、血液型とか星座とか姓名とか誕生日とか、脳や神経組織の状態や、遺伝子とか環境とか、そんなものに結びつけることはすべてナンセンスである。
なんらかの実態があってそこから性格が発しているのではない。
性格とはなにか
一回きりの行動や反応では「性格」とは言えない。
Q.次の二つの記述のうち、性格を示すのにふさわしいのはどちらか?
①Aくんは、よく怒る
②Aくんは、怒ったことがある
答えは言うまでもなく①である。
②の「怒ったことがある」ならばおそらくほぼすべての人に当てはまり、その人の特徴とはなりえない。
したがって、性格を判断するためには一回限りでなく、その行動が繰り返されているということが必要である。
性格が繰り返される行動であるということは、過去の偉人によって何度も指摘されていてなんの新規性もない。
ここで有名どころを二つほど紹介しておこう。
人格は繰り返す行動の総計である。
それゆえに優秀さは単発的な行動にあらず、習慣である。
William James Durant(20世紀アメリカの歴史家、哲学者)
※この名言はしばしばアリストテレスの言葉とされているが、
正確にはアリストテレスを参照したデュラントの言葉である。
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
マザー・テレサ(カトリック教会修道女、ノーベル平和賞受賞者)
ある人間を見極めようとするとき、“瞬間”を切り取って判断してはいけない。
人には善である瞬間もあるし悪である瞬間もあるからである。
逆に、あらゆる状況で常に善である人はいないし、悪もまたしかりである。
状況との不釣合=性格特徴
繰り返し現れる行動だというだけで性格特徴となるかというとそうでもない。
性格特徴という観点から重要なのは、状況との不釣合な態度(行動・言動)が繰り返されることである。
たとえば、「Bくんは意地悪だ」という表現を考えてみよう。
Bくんを幼少期から大人になるまでずっと間近で見てきた友人が「彼は一貫して意地悪だった」と言う。それは周囲の人間からの評価としてもだいたい一致している。
ではこの場合、Bくんの内側に「意地悪さ」の根拠となるような過剰な攻撃性やサディズムがあって、それが「意地悪さ」という性格となって表れているのか。そうではない。
私たちは他者と様々な関係の結び方をする。
気軽になんでも話せる相手もいれば、敵対している相手もいる。
会社の上司に服従することもあれば、ときに人を支配することもある。
関心を持てる人がいる一方で、ぜんぜん興味がない人もいる。
そういう関係の結び方(気軽に話せる、敵対、服従、支配、関心/無関心)が状況の諸条件に釣合っている場合には我々の行動は目立たない。
状況に釣合っているとは、「その態度をとることが不自然でない」ということである。
長年の友人とならなんでも話せて不思議でないし、自分の利益を損なう相手と敵対することも当然である。
服従とまではいかなくとも上司の命令に従うのは社会人としてやむを得ないし、自分の子供にたいしては時に支配力を行使することもある。
「意地悪さ」について言うと、
われわれに対して悪意をもち、われわれを侮辱し、搾取しようとしてくる者に対してわれわれが憎悪し、敵対的にふるまうのは当然であって、そうしてもわれわれは「意地悪な」性格とは見られない。ある人が「意地悪な」性格と見られるのは、状況の諸条件に不釣合に敵対的にふるまう、すなわち、彼に対して何の悪意ももっていない人を、何の得にもならないのに、わざわざ傷つけるようなことを言ったりしたりするからである。状況に不釣合だから目立つ。目立つから、それが彼の性格特徴とされるのである。
岸田秀『ふき寄せ雑文集』p.119
先の例を引きずって状況に不釣合にしてみると、以下のような性格となるであろう。
- 初対面の人とでも気軽になんでも話せる→人懐っこい、コミュニケーション能力が高い、他人を信用しがち
- 怒るほどのことではないのにしょっちゅう周囲に腹を立てている→怒りんぼ、短気
- だれのいうことも聞きがち→自分がない、卑屈、気が弱い、自信がない
- すぐに他人に関心をもつ(放っておけない)→人間好き、世話焼き、おせっかい
- 誰一人他人に関心をもてない→人間嫌い、自己中心性
要するに、周りから見て過剰(ポジティブにもネガティブにも)な態度をとったとき、それが性格特徴される。
ここまでくると「性格」という概念についてだいぶクリアになったのではないか。
しかしここでまた、一つの問題が浮かび上がる。
「状況に不釣合」というのは他人からの判断であって、当人があえて「状況に不釣合」とわかっている行動をとることはない、ということである。
主観的にはだれだって「状況に釣合った」行動をしているつもりである。
どういうことかというと、過度に攻撃的で「意地悪な」性格の人というのは、自分に対してまず他人が攻撃的なのだと知覚している人なのである。
「人びとの眼に意地悪さと映るところのものは、彼の主観では人びとの悪意に対する正当な反応である」(岸田秀)。
そこで次の議題に移ろう。
セルフ・イメージは主観と客観で反比例する
セルフ・イメージとは
私たちはだれでも自分について一定のイメージを持っている。
優しいとか気が弱いとか勉強ができるとか飽き性とか、自分は何者かである、損ばかりしている、人によく誤解されがち、気前がいい、すぐに人を信用する、など。
このセルフ・イメージというのは、当人の客観的性質の反映ではない。
他人に対する当人の期待や欲求の反映である。
具体例
①「わたしは無知である(わたしは頭が悪いとか適宜読み替えてよい)」
自分は物を知らないと思っている人はどう行動するか?
他の人より勉強をする。勉強をするたびに無限に自分の知らない事柄が増えてくる。
ますます「ああ!わたしはなんという無知か!」という確信を深める。
そしてまた勉強をする。
すると客観的には彼はよく物を知っている勉強熱心な人、ということになる。
「Cは頭がよくない」(=事実)ということと、「(Cは自分の)頭がよくないと思っている」(=主観)ことは全く別なのである。
②「おれの努力はいつも報われない。正当に評価されていない損な人生だ」
主観的にそう思っている人間はどういう人間か? 実際に彼は実力があるのに他人からの評価が得られない損な人なのだろうか? そういう場合が無きにしも非ずだがたいていの場合そうではない。
こと「自分」の評価に関して、感情を抜きにして観察できるという点で自分より周囲の判断の方が往々にして正確である。
自分は自分の行動や要因を内側から見ていて、常時「自分」であるから誰よりもよく知っていると人は考えがちだ。逆に自分を断片的あるいは部分的にしか見ることができない他者の観察の方が正確であるわけがない。そういう直感がある。
しかしこれは端的に言って間違いだ。
人は他人を外側からしか見られないことによって、行動と行動の間にある心的な要因を省き、純粋に行動のみ合理的に見て評価をくだすことができる(合理的でない判断もしばしばあるが主観よりはマシな場合が多い)。
今回の例でいえば、彼は人生でいつも努力が報われないことを嘆き、自らを「正当」に評価しない他者や世界を疎ましく思う。しかしこれは事実関係が逆なのであって、他者からの評価が得られていないということは、彼は客観的に見て評価に値することを何もしてない、と考えるべきなのである。つまり彼は「人に評価される以上に一生懸命にやったと思いたがっている人」ということである。
つまり、セルフ・イメージと、他者から見た自分というのはちょうど反比例していると考えてよい。
性格に関する自己判断は、自分は背が高い/低い、目が大きい/小さいとかの判断とは本質的に異なる。
身長の高低ならば、集団の平均をとり、その平均と比べて自分は一般より背が高いほうだとか低い方だと言えるが、性格に関しては一般基準は存在しない。
ではどんな基準が存在するか?
「私」という基準が存在するのみである。
「おれは天才的テニスプレーヤーである」と主観的に考えていてもせいぜい地区予選優勝程度の実績がないことがあるし、2500年以上の時を経てなお参照される哲学者ソクラテスも「自分はなんたら無知であることか」と主観的に思うことができる。
このとき分かるのは、ソクラテスが「無知ではない状態」とする基準がべらぼうに高みに上っているということであって、ソクラテスが本当に無知であるということではないのである。
自己分析の方法
これまでの議論を踏まえると、自己分析をどのように行えばいいか見えてくる。
つまり、平静な心で自分を反省してみて、自分はこういう人間だと思える時、他人にはちょうどその正反対の姿が写っていると考えて間違いない。
岸田秀によれば、
- 傲慢な者ほど自分を謙虚だと思っており、謙虚な者は自分を傲慢だと思っている。
- 被害者意識が強い者ほど周囲に対して攻撃的に振舞うので恐ろしい加害者となっている。
- 人の気持ちに無理解、無感覚な者ほど「自分は人の気持ちがわかり過ぎている」と思っている。
- 思いやりのある者ほど、人の気持ちほど理解しがたいものはないことを知っており、自分がつい気付かずにどれほど人の気持ちを傷つけているかと怯えている。
- 素晴らしいと自惚れている自分の姿こそ、他者の眼にはもっとも醜い姿である。
ということになる。
性格は客観的実体ではなく、他者との関係性である
ここまで述べてきたことから分かるように、性格は一般に言われているように単純に判断できるようなものではない。
Aの性格についてB、C、Dが語るとき、それはAについての性格よりも「Aをそういう性格だと見た」B、C、Dについてより多くを語るのである。
Aを「優しい」とみたBは、Aが他人に優しさを見せた状況ではそう行動しない、というBの性格を表すし、同じAの行動を「不親切」とCが判断する場合もある。それはCが同じ状況でより親切にふるまうことを示すだけであり、Aの性格ではない。あるいはAの行動に対し、Dは「優しい」とも「不親切」とも思わない。当然すぎることは意識に浮かばない。
この場合も、Dの行動の基準がAのそれと一致していることがわかるだけである。
まとめ
以上のことをまとめてみよう。
性格とは、
- 一回性の態度(行動、言動)ではなく、繰り返される態度である。
- 状況と不釣合な態度である。言い換えれば、自分と他人との間にある“落差”である。
- 客観的実体ではなく、他者との関係性である。
さあ、あとは自己分析を実践するのみ。
「性格について」(岸田秀『続 ものぐさ精神分析』所収,初出1977年)
「ふたたび性格について」(岸田秀『ふき寄せ雑文集』所収,初出1987年)
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