「日常性」の嫌悪
われわれ人間は日常性を嫌悪する。
ただ〝今〟が〝今〟であるというだけでうんざりせずにはいられない。
付き合っている男あるいは女は、それがすでに手に入っていて日常性を帯びているがゆえに退屈な存在となり、世の中には浮気や不倫が満ち溢れている。
気概のある男子学生はくだらない日々に決別したくてステージの上で好き勝手な感情を叫ぶバンドマンに憧れてギターを練習するし、そのバンドマンはライブで演奏することが日常になっていてそこになんの刺激も感じなくなり、それをまた歌詞に書きつける。
女子学生は画面の中のアイドルになりたくて、自分ももしかしたら可愛いのかもしれない、歌で、踊りで、輝けるかもしれないと、現実から目を逸らして希望を抱きオーディションへ応募する。あるいは精一杯可愛いと思われる化粧をして、表情と動作をインスタグラムやTwitterに投稿する。「いいね!」がクソおもしろくもないこの日常から抜け出すための切符になると信じている。
洗濯機を日に何度も回し、食事をつくり、また片付け、掃除機をかけ、旦那のシャツにアイロンをかけて、子供を育てる主婦は、華やかさのかけらもない自分の身の回りを見たくないので、韓流ドラマのヒロインの境遇に身を重ねて、誰にも顧みられないこの私を刺激に満ちた別世界へ連れ出してくれる、そんな出来事がいつか起きるのを期待している。
目覚ましに叩き起こされ、疲れの抜け切らない体に鞭打って日々スーツを身に纏い、足を踏んだり踏まれたりしながら込み合う駅のホームを抜け、自分と同じように亡霊みたいな顔をしながら一定のリズムで揺れる電車で肩を並べるサラリーマンたちは「おれはこいつらとは違う。もっと金を稼いで、世界に存在を認めさせてやるんだ。宝くじさえ、いや競馬でもパチンコでも投資でもなんでもいい。当たれば一発逆転。こんな生活とはおさらばだ」と何の個性もない夢想をする。
そういう人間たちに、雑誌や漫画、テレビ映画、その他メディアが提供しようとするものは、人間個人がちっぽけで無能で退屈で空っぽな存在であることから一時的に目を逸らしてくれるという効果だ。
SNSも同じ。「わたしはあんたたちのような退屈な日常を生きていないの」と生活の華やかな部分だけを切り取って他者にばらまき、称賛を得たい。そうすれば自分が本当に「何者か」であるような気になれる。
あるいはテーマパーク(某なんとかランドやユニバーサルほにゃららを筆頭に)でも海外旅行やお祭り(イベント)でもいい。人は「今、ここ」を脱出するためなら金をどんどん投下する。企業のマーケティングは人間の基本的な欲望をよくわかっている。
いわゆる「文化」の機能の一つは「日常性の脱出」を果たすということ。上記はその形態がさまざまであるというだけだ。
歴史はそういう、「今ここにある日常」を破壊したくて、変革したくて、行動をする人間たちによって紡がれてきた。
ここで問題。
なぜ人間は「今」を精一杯生きてそこに充実を見ることができないのか? 言いかえれば、人が「過去」や「未来」という観念を持ち、しばしばそれを支えに「今」を耐えるべきもの、乗り越えるべきものと捉える、その心的構造とはなんなのか?
今回はそういうことを考えてみよう。
「日常性」=「常識」の成立
日常的現実、あるいは常識とは
今回の論考は岸田秀「日常性とスキャンダル」(『ものぐさ精神分析』収録、初出1976年「現代思想」)を参照している。
そこでは、そもそも「日常性」がいかに成立しているかということについて、極めて示唆に富んだ思考を展開している。
いくつか興味深い言葉を抜粋してみよう。
われわれの日常的現実とは、どういうわけだかよくわからないがそういうことになっているもの、誰かがそのように決めたものであり、われわれは誰でも多かれ少なかれ、自分と日常的現実とのあいだにある種のちぐはぐさ、しっくりしない感じ、ずれを感じている。
岸田秀『ものぐさ精神分析』P.91
→これはよく考えれば当たり前である。われわれが生まれた瞬間からこの世界にはすでに「日常的現実」が成立している。 個人の人格や欲求など関係なしに「これが日常!」「常識だから!」といって、いわば押し付けられるものなのである。
「常識」とは、人びとが、自分以外の大多数の者が信じていると思っているところのものである。いずれにせよ、「常識」人をも含めてわれわれは、これで本当にいいのだろうかとの疑いを残しつつ不本意ながら日常的現実なるものにつき合っているに過ぎない。自分が「常識」外れだと思うにせよ、「常識」の内側にいると思うにせよ、そのときにわれわれが「常識」と見なしているものが、場所により、時代により千差万別でときには正反対ですらあることは、今さら説くまでもないことであろう。
岸田秀『ものぐさ精神分析』P.86
→たとえば筆者が暮らしているのは2021年の日本であるが、今現在成立している常識が過去においても未来においても、あるいは日本国外においても常識であるかといえばそんなわけはない。
それはつまり、常識というのは何の根拠もなく、みんなが常識と思ってそう振舞っているから常識として成立しているだけということである。「貨幣」と全く同じである。ちなみに岸田秀はそういうものを「共同幻想」と呼ぶ。
われわれが現実と信じているところのものに確実な根拠が何もないということは、
- われわれを耐えがたく不安にさせる(何の支えもなく空中に放り投げられているような感じだから)
- ニセモノであるために合わせるのが難しい(何のためにニセモノの現実に従わなくちゃいけない? という疑問を生む)
- 日常性(=常識)を日常性と確信するための確実な基盤と理由がないからこそ絶対的と思える存在が必要!
となる。
聖なるもの、日常的なもの、穢れたもの
そもそも日常性がいかに成立したか? 岸田秀はここも実に明快な理屈で説明しているが、それをここで説明するにはやや余白が(あるいは筆者の根気と技量)が足りないので割愛する。実際、用語の定義や論理の階層を示さなければならないので、ブログで書くには複雑になり過ぎる。よって興味を抱いた方は本著を直接参照されたい。
このタイトル以外にも、精神分析的に知的好奇心を刺激してくれる論考が並びたいへんおもしろい。勉強になる。
なんにせよここで重要なのは、われわれの根拠なき日常性を支えるものとしての絶対的な存在「聖なるもの」と、その「聖なるもの」が成立すると同時に「日常性」から排除された「穢れたもの(抑圧されたもの)」の形成するということである。
この三者が織りなすドラマは、個人の内部において、個人と個人のあいだ、集団と集団のあいだのあらゆるレベルにおいて展開され、対立、逆転、移行、統合を繰り返す。つまり、あるレベルでの聖なるものは別のレベルでの穢れたものに逆転し、あるレベルでの聖なるものは別のレベルでの日常的なものに移行する、など。
岸田秀『ものぐさ精神分析』P.91
「神」がいるから「悪魔」がいるし、「国家」が正義となって法律をつくるから「犯罪」が存在する。
片思いのあの娘を神聖視して自我の支えにしていたのに、彼女が現実の恋人となるやいなや穢れたものに見えた思春期(cf.押見修造「悪の華」)。
自分の中の絶対的な目標に手が届いた途端、色褪せた「日常」に変貌した「夢」。
「暴力・殺人」と呼ばれる日常性から排除された「穢れたもの」も、格闘技のリング上や国家間の戦争中は称賛・勲章を得る行為となるのだ。
聖なるものは、つねに穢されたものに汚染され、浸蝕され、あるいは穢れたものに逆転する危険にさらされている。この危険を防ぐため、ときどき、聖なるものに取り憑いた穢れたものを洗い流し、聖なるものを純化しなければならない。また、聖なるものに支えられた日常的なものも、つくりものの虚構であるかぎりにおいて、そして、外側にある聖なるものにその最良の部分を奪われているかぎりにおいて、つねに固定化し、生気を失い、耐えがたく退屈なものになる危険があるから、ときどき、穢れたものを聖なるものまたは日常的なものに逆転または移行させて、変化を与え、この危険を防ぐ必要もある。
岸田秀『ものぐさ精神分析』P.91
要するに、われわれにとって常に隣の芝が青く見えるのは、日常的現実が虚構であり、なんの根拠もないからなのであった。
ショーペンハウアーの箴言
上記のような人間の心的構造のために、「過去は美化される」とか「未来は希望である」と考え、ともすれば「今、ここ」をないがしろにしがちで、その結果人生を棒に振りがちな凡人たるわれわれに、ドイツの哲学者ショーペンハウアーが非常に鋭い忠告を与えてくれているので最後にご紹介しよう。
何でも自分の持っていないものを見ると、それが自分のものだったらどんなだろうととかく考えがちで、そのために不足感が起こってくる。それよりはむしろ、自分の持っているいるものを、これが自分のものでなかったらどんなだろうと、たびたび問うてみるがよい。つまり、財産であろうと健康であろうと、友人や恋人や妻子であろうと、馬や犬であろうと、何であろうと、自分の持っているものを、かりに失っていたとしたら、それが自分の目にはかくかくしかじかに映ずるであろうといった角度から、時折眺めてみるように努力するがよい。大抵の場合、失ったあとではじめてものの値打ちがわかるからである。
ショーペンハウアー『幸福について』P.246-247
大切だったことを後で悔いることがないよう、「日常性」を〝今〟抱きしめよう。