【入門】認知言語学とはなにか――わたしたちはどのように事態を把握しているのか?【論文をわかりやすく解説!】

〈ひと〉は問題の〈事態〉をどのように捉えるかによって,その〈事態〉を違ったふうに意味付けすることができる.つまり,〈意味〉は〈事態〉そのものに内在するものではなく,〈認知の主体〉としての〈ひと〉が主体的に創出するものなのである

池上嘉彦


今回紹介する論文はこんな人におすすめ⇩⇩
  • 「(認知)言語学」という学問に関心がある
  • 人に「好まれる」伝え方を知りたい!
  • 外国語を学習していて、日本語との表現の違いが気になった
Key words
言語学/認知言語学/主観的把握/客観的把握/意味論

4月になり、近畿大学通信教育部図書館司書コースでの学習が本格的に始まったD氏である。

勤務している大学院では新学年が始動し、履修登録やら講義運営等の業務が多忙なうえに、自身の司書過程のレポートが立て込んできていて私らしくもなくやや多忙。

そんな中でなおブログを書く気力を失わないD氏を褒め称えたい奇特な方がいたら挙手でどうぞ(更新頻度の少なさは棚に上げる)。

それはさておき。

今回は書籍ではなく、おもしろい論文を一本とりあげてみます。

池上嘉彦「日本語話者における〈好まれる言い回し〉としての〈主観的把握〉」(人工知能学会誌, 2011年26巻4号 p.317-322)である。



前回のブログ(【【おすすめ!】必ず手に取るべき岩波新書の名著3選【教養を身に付けよう】)で紹介した、あの池上嘉彦 氏である。
【おすすめ!】必ず手に取るべき岩波新書の名著3選【教養を身に付けよう】 ちなみにこの論文はオープンアクセスなので、本記事を読んで少しでも興味が湧いた方は以下から気軽にダウンロードしてみてほしい(もちろん無料)。

参考 日本語話者における<好まれる言い回し>としての<主観的把握>(<特集>主観性とパースペクティブ)J-STAGE

1.〈認知言語学〉の基本姿勢

だいたい想像のつくことであるが、〈認知言語学〉とは言語学という学問の一分野である。

池上氏によれば、認知言語学は1980年代頃から従来の言語研究への反省に基づいて始まったという。

言語学とはそもそもどのような学問なのか?

一般に言語学がどんなことを研究しているのかイメージできる人は多くないのではないか。

あるいは、「語学」つまり外国語を学習し研究することと混同している人さえあるかもわからない。

本当はここで「近代言語学の父」と呼ばれるスイスの言語学者 フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure, 1857-1913)を持ち出したりして、古代ギリシャから現在にいたるまでの言語学史を展開したいところだけれど、あまりに壮大で、それなりの準備が必要となるためここでは割愛させていただき別の機会に譲ります。

重要なことは、従来の言語観では、「言語」をもっぱら思弁の対象にしたり、それを使う人間から切り離して客観的に観察しようとしていたということである。

だが、それはおかしくないだろうか?

例えば扱う人によって「刃物」が物を切るための「便利な道具」にも他人を傷つける「凶器」にも形を変えるように、〈ことば〉の形もそれを使う人間の心のはたらき(目的や思惑や思考など)による影響を受けているはずではないのか?

人間を離れたところで〈ことば〉を考えてもナンセンスではなかろうか?

そんな日常レベルでは当たり前すぎる感覚を言語学に取り込んだのが〈認知言語学〉だといえる。
それが「〈ことば〉を使う〈ひと〉(の〈こころ〉の働き)との関連で〈ことば〉を考えてみる」という認知言語学における基本姿勢の意味である。

2.〈主観的把握〉と〈客観的把握〉

2-1.事態把握とはなにか

認知言語学における〈ことば〉への関わり方を特徴づける概念に「事態把握」がある。

簡単に言ってしまえば、世の中の出来事をどのように捉えるかには、人によって差があるよね、ということだ。

車の衝突事故があったとして、自分は被害者だと思っていても相手は加害者だと思っている場合があるし、仕事で会社の同僚に恩を売られたと負債感を抱いていたら相手は何とも思っておらずその行為を忘れていることがある。

また、同じ人間であっても時間的な隔たりや実存的な状況の変化があると同一の〈事態〉を違った解釈でとらえたりする。

以前読んだ本や鑑賞した映画が、時間が経って、色んな経験をしたあとで再び戻ってみると印象がガラリと変わっていたりすることは誰もが実感として知るところであろう。

そのような物事の捉え方すなわち「事態把握」が、言語化に先立って無意識に起こっているのである。

キーポイント
事態把握には「意識」が介入していないことが重要だ。
われわれはある事態を「こう思うことにしよう」とコントロールして把握するわけではない。「こう思うことにしよう」という言語化(内なる声であっても)以前に、すでに事態把握は行われてしまっているのである。

上記のことを、池上氏は次のとおりまとめている。

  • (i) その〈事態〉に含まれるすべての〈もの〉/〈こと〉を表現しようとするわけではないし,また,そのようなことをするのは事実上,不可能である.実際には,問題の〈事態〉に含まれるある〈もの〉/〈こと〉は表現されるが,それ以外の〈もの〉/〈こと〉は表現されないままで終わる.
  • (ii) その〈事態〉の中で特に自分と関わりがある(つまり,自分にとって〈意味〉がある)と思われる〈もの〉/〈こと〉だけが選ばれ,自分との関わり方に従って表現される.

(i)には特に解説は不要であろう。私たちは日常を生きている中で様々な出来事に遭遇し、あらゆることを知覚しているが、それらすべてが意識上に上るわけではないし、意識に上らないことは言葉となって表現されることもない。

(ii)は、例えばAとBに金銭的な貸し借りがあったとする。それをAならば「Bに金を貸した」と表現するし、Bならば「Aに金を借りた」と表現する。
あるいはその事態の当事者ではない第三者ならば「AとBには金の貸し借りがあった」という事実そのものに意味を見いだして表現したりするだろう。

それがAやB、あるいは第三者にとっての事態への関わり方だからだ。

さらに言えば、Aが同じ事態を表現するとき、「Bに金を貸してあげた」とか「Bに金を貸してやった」とか「Bに金を預けた」とか「Bに金を用立てた」など色々な言い方があり得る。

これはそれぞれ事態の〈意味〉するところ(つまり頭に思い浮かぶ情景)は同じであっても、
「Bに金を貸してあげた」→親切心
「Bに金を貸してやった」→上から目線
「Bに金を預けた」→信頼関係
「Bに金を用立てた」→用意した
というように〈価値〉が異なっている。ここにこそAの「事態把握」が反映されるわけである。

繰り返しになるが、人は問題の出来事をどのように捉えるかによって、その出来事をどのようにでも意味付けすることができる。

それはどういうことかというと、最初に引用した通り、〈意味〉は出来事そのものに内在するのではなく、その出来事に接して、それを捉える人間が主体的に創出するものだということだ。

2-2.事態把握におけるふたつの視点

人によって「事態把握」は多様であることを踏まえたうえで、論文では、言語によって好みの「事態把握」の仕方があることを指摘している。

そしてこれがこの論文の肝であるが、日本語を母語とする話者にとって好みの事態把握の仕方は〈主観的把握〉である、という議論が展開される。

認知言語学の術語で〈主観的把握〉〈客観的把握〉と呼ばれる対立があるという。
それぞれを説明した部分を引用しよう。

  • 〈主観的把握〉:話者が言語化しようとする事態の中に身を置き,当事者として体験的に事態把握をする場合.実際には問題の事態の中に身を置いていない場合であっても,話者はあたかもそこに臨場する当事者であるかのように,体験的に事態把握をする.
  • 〈客観的把握〉:話者が言語化しようとする事態の外に身を置き,傍観者,ないし観察者として客観的に事態把握をする場合.実際には問題の事態の中に身を置いている場合であっても,話者はあたかもその事態の外に身を置いている傍観者,ないし観察者であるかのように,客観的に事態把握をする.

これは個人的にきわめて興味深い指摘である。

まずは論文内で挙げられている具体例を以下でまとめて提示するので、皆さんも自分の中で喚起されるイメージが日本語と英語でどのように違うか、内省してみてほしい。

2-3.具体例一覧

(1)
a) 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった.(川端康成『雪国』の冒頭)
b) [英語の和訳]汽車ハ長イトンネルヲ出テ雪国へ入ッテキタ.
(The train came out of the long tunnel into the snow country.) (E. Seidensticker訳)

(2)
このうちに相違ないが,どこからはいっていいか,勝手口がなかった.(幸田文『流れる』の冒頭)

(3)
a) まづ高舘に登れば北上川,南部より流るる大河なり.(芭蕉『奥の細道」)
b) [英語の和訳]私タチハマズ高舘二登ッタ.私タチハソコカラ北上川,南部ヨリ流レテクル大河ヲ見ルコトガデキタ.
(We first climbed up to Palace-on-the-Heights, from where we could see the Kitagami, a big river that flows down from Nambu.) (D. Keene訳)

(4)
a) 星が二つ見えます.
b) [英語の和訳]私ハニッノ星ヲ見マス.(I see two stars.)

(5)
a) 風の音が聞こえる/風の音がする.
b) [英語の和訳]私ハ風ヲ聞ク.(I hear the wind.)

(6) 〔道に迷って人に尋ねるとき〕
a) ここはどこですか.
b)[英語の和訳]私ハドコニイマスカ.(Where am I?)

(7) 〔電話で対話者を指名したら,たまたま本人だったという場合〕
a) 「山田さんをお願いします.」「私です.」
b) [英語の和訳]「私ハ山田サントオ話シデキマスカ.」「コチラデ話シテイルノハ山田サンデス.」
(“May I speak to Mr. Yamada ?” “This is Mr.Yamada speaking.”)

(8)
a) 私はもっと頑張らなくちゃ.
b)[英訳の和訳]オ前ハモット頑張ラナクチャ.(You must work harder!)


いかがであろうか?
それぞれの例のa) が主観的把握=日本語的な把握であり、b)が客観的把握=英語的な把握である。
※(2) は主観的表現のみ

例えば(1)では、〈主人公の乗った汽車がトンネルを抜けて雪国へ入った〉という事態を表現しているのだが、主観的把握では「汽車に乗っている」ことは明言化されていない。読者はいわば主人公の見た景色を通して「汽車に乗っている」ことを体験的に知るという構造になっている。
一方で英訳はというと、「汽車」を言語化し、それに“乗っている私”を描いている。

このカメラワークの違いがお分かりいただけるであろうか?

POV(Point of View)的な、視点の存在を明確にしている主観的把握は右側の画像の感じ↓↓

出典:「アイアンマン」より

要するに、自分の視点に自分の身体は写っていない、ということである。当たり前のことだ。

一方で、「英語のような言語では話者自身が外から自分自身を視る(つまり,〈自己の他者化〉)という構図で〈客観的把握〉を行い,それに基づいての言語化(つまり,自己の明示的な言語化)がごく自然になされる」のである。

(2) ~(6)の例を見ても、主観的把握に基づく表現では、表現している主体を明言化していないことがわかるし、客観的把握では自分自身のことを一歩引いて眺めているように客体化して描き出しているのがわかる。

(7)と(8)は、英語のような言語の話者が〈自己の他者化〉を行って事態を把握していることがよくわかる例である。

以上のことから、池上嘉彦氏は次のような結論を導く。

英語話者が容易に自分自身をも客体化し,〈客観的把握〉の構図で事態把握をする傾向があるのとちょうど対照的に、日本語話者は〈自己投入〉とでもいうべき認知的操作――つまり、自分自身が臨場しているのではない事態の中に自分自身を心理的に投入して,あたかもその事態を体験しているかのごとく〈主観的把握〉の構図で事態把握をするという傾向――が顕著であるように思える

3.まとめ―言葉に投影される文化論―

この論文の要点をまとめる次のとおりである。

・〈認知言語学〉の基本姿勢は、言葉を使う人の心の働きとの関連で言葉を考える
・言語化に先立つ「事態把握」は人によって多様である
・〈主観的把握〉では事態の中に自分自身を心理的に投入しているので表現している主体を言語化しない
・〈客観的把握〉では自己を他者化して明示的に言語化する
・日本語話者の好みの事態把握の仕方は〈主観的把握〉である

この論文で展開される議論は、グローバル化した世界を生きる我々にとって非常に有益な学びを与えてくれる。

本当の意味でコミュニケーション(意思の疎通)を図るということは、言語を用いる人たちの事態把握まで理解を広げるということなのである。

単に意味が同じ単語を文法に沿って並べればよいというような簡単なことではない。

「〈ことば〉で伝えても、伝わったのは〈ことば〉だけ」などという事態に陥らないように。

最後に、世の中には無料で公開されている上質な論文が山ほどある。
ぜひ本だけでなく、幅広く知的な生産物を探してみてほしい。あなたに読まれるべき文章があなたの手に取られることを祈念しつつ筆を措くこととする。

なお、本記事を読んで認知言語学に興味を持ったら以下の本が参考になるのでどうぞ。

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