【精神分析】「嫉妬」の構造【正体を解説!】

今回は精神分析学者 岸田 秀の『「哀しみ」という感情』を参照して、「嫉妬」という人間が持つ感情の中でももっともやっかいなものの正体を考えてみたい。

1.「嫉妬」という感情の正体はなにか?


「嫉妬」は〝他者を自分より下に引きずり下ろしたい衝動〟と定義できる。

人間独自の衝動であって、人間以外の動物にはない。

2.「嫉妬」の構造

なぜ人間にのみ「嫉妬」が生じるのか?
岸田 秀 に拠れば、それは以下のような構造のためであるという。

2-1.人間は「自我」を持つ

前提として、人間は「自我」を持っている。

2-2.「自我」とは「本能」の代用品

「自我」は「本能」の代用品であり、行動規範である。

「本能」とは、現実への適応を保証するものである。動物は「本能」に従って行動することがそのまま個体保存につながっている。

例えば、蚕という虫がいる。

蚕は桑の葉しか食べない。なぜ桑の葉しか食べないか? それはそういう遺伝的プログラム=本能があるためである。
そのプログラムによれば、まず桑の葉に含まれている物質の匂いに反応し、寄っていく。
次の匂いに行き当たったら噛みつくという行動を起こし、第三の匂いがあったら飲み込む。
仮にその匂いがなかったら寄っても行かず、噛みつきもせず、噛みついても次の匂いがしなければ飲み込まない。
そういう行動様式を先天的に持っている。

その他の動物、ペンギンでもウグイスでもスズメバチでもボノボでもザトウクジラでも、本能によって世界認識をしている人間以外の動物たちは、個体ごとに異なる行動をとったりせず、食事も生殖行為もその他自己保存的反応も概ね種に一定である。

本能という行動規範が認識される現実にピタリと沿っていて、そこから外れることがない。

なんでも食べ、どれかが毒であるかもしれないという状態より、ガッチリ決まった行動規範があったほうがこの世界では遥かに安全で、ひいては個体や種族の保存に役に立つからである。

しかし、ヒトという種においては、その世界を知覚するための「本能」が壊れてしまっている。
※なぜヒトの「本能」が壊れたかについてはいずれ書く予定。

つまり本能的な行動規範が失われているわけである。だが、そのままでは何をどうすればいいのか分からず、生命を維持できないので、代理本能的な行動規範としてやむを得ず「自我」を造った。

人間は本能に代わる「自我」を守らなければならない。

なぜなら、行動規範としての自我まで壊れてしまったら、人間は世界での立ち振る舞い方が分からなくなり、つまりは現実世界への不適応をきたし、死んでしまうからである。

2-3.「自我」は不安定

動物が持つ本能と異なり、人間の「自我」は不安定である。崩れる可能性がある。

人間以外の他のすべての動物は「本能」という生物学的基盤に拠って、世界を知覚し、行動することを述べた。そこには自分の生命と世界認識との間にギャップがない。

一方で「自我」による世界認識は動物の認識するような客観的な自然的世界とズレている。

国の違いは言うに及ばず、同じ国でも地域によって食べ物、行動様式、ものの考え方がまったく違う。性行為を一つとってみても人間ほど多種多様な体位を持つ種は他にないし、発情期も存在しない(いつでも発情できるので)。

「本能」という種に共通の行動規範が壊れている人間の行動だけが、地域や時代や個体によって多様でありうる。つまり行為が開かれている。

「自我」は造り物=人間が生まれた瞬間から持つものではなく、成長の過程で後天的に構築するものであるから、「本能」と異なり、現実的基盤がない。

どういうことか? 例えば「私」は男であり、日本人であり、大学職員であり、文章を書くことが趣味であり、という様々なセルフイメージを持っている。しかしそういう属性は私の身体的存在のどこにも書かれていない。つまり動物としての私の存在から内発的に出てきたものではない。

私が上記のセルフイメージをもち、そのように振舞いあるいは行動し、周囲の人間がその私のイメージを共有することで初めて成立しうる。

さらに例えれば、仮に生まれた瞬間から他者が一切存在しないまっ白な部屋で隔離された人間がいたとする。彼・彼女は自我を持ちうるか? 持ちえたとして、それを認めてくれる他者が誰もいない場所で自我を維持しうるか? である。

要するに自我は「私」であると同時に「他者」(の支えを必要とする構築物)である。ゆえに常に壊れる危険性がある。不安定である。他者が私のセルフイメージを共有してくれなければ自我は存続しない。

2-4.動物は自己保存本能を持つ

動物は自己保存本能を持つ。その本能は個体の生命とぴったり重なっている。

人間の場合、自己保存のエネルギーはあるが、「自我」の保存に方向づけられている。自我は必ずしも生命=身体的存在と一致していないので、自我を守るために現実的な立場を危うくしたり、場合によっては死を選ぶということも起こり得る。

「自我」を支えるため、「自分には価値がある」(ナルチシズム=自己愛)ということを信じなければならない(でなければ守ろうとしない)。

ナルチシズムは人によってその置き場が異なる。

人より頭がいい、人より美女である・美男である、人よりモテる、人より金を持っている、ピアノが弾ける、字が上手い、絵が上手い、歌が上手い、インターハイに出た、バスケ部の地区大会で優勝した、いい企業に内定をもらった、仕事に縛られず生きている、など。どんな内容でもレベルでもよい。すべてがナルチシズムを満たす(「自分には価値がある」と思い込む)素材になり得る。

2-5.世界にはすべての分野において「上には上がいる」

しかし、この世界にはすべての分野において「上には上がいる」。

自分がナルチシズム=自我を支える根拠を置く分野で自分より優れた他者に遭遇するという事態に直面すると、自分の価値が疑わしくなる。

「自我」が揺さぶられる。崩れそうになる。

2-6.人は「自我」を守らねばならない

世界を曲がりなりにも知覚し、適応・対応するための装置である「自我」は生きる上で必要不可欠なので、人は揺さぶられた「自我」が崩壊しかけるのを防がねばならない。

言い換えれば「自我」の安定の回復を目指さねばならない。

そのために自分より優れている(と写った)他者を、自分より劣っている(ように見える)位置へと引きずりおろすことを願う。

その衝動こそが「嫉妬」である。

3.まとめ

あらためてまとめてみると以下の通りとなる。

・「自我」は現実へ適応するための装置である
・「自我」は生物学的基盤を持たず、生後後天的に構築されるがゆえに、壊れる可能性がある
・「自我」がなければ人は生命を維持するための行動がとれないので守らなければならない
・「自我」を守ろうとする自己保存エネルギーはナルチシズムに発する
・「自我」を支える根拠であるところのナルチシズムを置く分野で自分より優れた他者に遭遇すると自我が揺さぶられる
・揺さぶられた「自我」の安定を図るため、優れた他者を自分より劣った存在にしようとする。その衝動が「嫉妬」である

ここから何が言えるか?

自分がどのような対象に「嫉妬」するかを把握することは、自我を支える根拠=ナルチシズムの置き場を認識するためのヒントとなる、ということである。

この問題はいずれまたどこかで詳細に検討することがあるだろう。

それではまた。

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