千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』
今回紹介する本はこんな人におすすめ⇩⇩
- 自分はこのまま生きていっていいのかな、と悩んでいる人
- 「物語」って結局なんなの? と気になっている人
- 「自分とは何か」という哲学的な問いに関心がある人
先日レイ・ブラッドベリのSF小説『華氏451度』を読んでいると、こんな場面があった。
本を読み、思索することが忌避されるディストピア的世界(ある意味現実世界そのものだが)で、主人公モンターグに大切な何かを思い出せてくれた少女がいる。
彼女をファイアマン(昇火士:本を燃やす職業)としての上司ベイティがこう評していた。
(彼女は)物事にたいしてどう起こるかではなく、なぜ起こるのか知りたがっていた。
それは人を不幸にするのだ、だから大衆は「なぜ」という問いを放棄したがる、と。
一方で今回紹介する『人はなぜ物語を求めるのか』では、人は本質的に「なぜ」を知りたがる存在であることが論じられている(そもそも本のタイトルからして既に「なぜ」が含まれている!)。
ところで、自我とは、物語である。フロイトを敷衍してそう喝破したのは精神分析学者の岸田秀である。
【精神分析】「嫉妬」の構造【正体を解説!】
【自己分析の方法】性格とは〝落差〟である
ここでいう自我とは、人間という種に独自の、本能とは異なる行動規範という意味である。
この概念について深掘りするとそれだけで一本の記事になってしまうので詳細は別の機会に譲るが、たとえば……
男/女である、金持ち/貧乏である、自分は賢い/愚か、モテる/モテない、etc
そういうあらゆるセルフイメージは「観念」であって、生物学的な個体から発しているものではないという意味で、妄想であり、幻想である。しかし、人間はその現実に根拠を持たない自我あるいは自らに関する説明=物語なしには何も行動できない。
逆に言えば、自我という物語をもって初めて、私たちは私たちとしてこの世界の中での立ち振る舞いを決定できるのだ。
本書もそれと限りなく近い立場で展開されるアイデンティティ論すなわち「私とはなにか?」を考えている一冊である(少なくとも私はそういう観点で読んだ)。
その点で、小説・脚本などの書き方や構造を論じるような、いわゆるゴリゴリの《物語論=ナラトロジー》の本だと思って手に取るとややイメージがズレかもしれないのでご注意。
もっとも、アイデンティティ論だけではなく、文学理論、認知心理学、宗教学、哲学にいたるまで幅広い射程を含んでいるので、さまざまな観点からの読みが可能であることを否定するものではない。
かといって内容が小難しそうと思って臆する必要はぜんぜんない。文章も平易であるし、想定しているであろう読者も哲学なんかにまるっきり触れたことのない人だと思われる。
「世界の見方をこんな風に変えられますよ」という著者なりのアドバイスをエッセイ感覚で気軽に読んでいただきたい。
「自分」というものは身近なようでもっとも遠い。
そんな自分を知るために、自分を形作っている「物語」を知る必要がある。
そのためのヒントを豊富に提供してくれる本である。
さっそく中身に入ろう。
1.『人はなぜ物語を求めるのか』の概要
1-1.著者 千野 帽子 について
まずは著者であるところの千野 帽子 氏について、情報を提示しておこう。
本名:岩松 正洋(いわまつ まさひろ)
1965年福岡県生まれ。2022年時点で56歳ないし57歳。
九州大学大学院修士課程修了(仏文学専攻)後、パリ第4大学で文学博士の学位を取得している。
文学理論、現代小説、比較文学を専門とする研究者として、現在は関西学院大学商学部教授を務めている。
私が森見登美彦という作家の作品を敬愛していることは周知の事実であるが(どこにも書いたことはないけれど)、『文藝』(2011, Summer)の森見登美彦特集に論考を寄稿していたことから私は千野 帽子 氏を知った。
森見さんの作品を文学史に位置付ける知識の幅広さに
だい
そのため、私にとっては千野某氏はまず「近代文学に精通する評論家」である。
なお、学者としてもコンスタントに論文を発表している。
研究のキーワードは「メタフィクション / マジックリアリズム / 幻想文学 / 物語論(ナラトロジー) / 虚構論 / 可能世界 / SF / 歴史記述 / 小説 / ポストモダン / 探偵小説(ミステリ)」だそう。
私もいくつか論文を読んでみたが非常に興味深い。英語力さえあれば関西学院大学大学院に進学し、指導を乞いたいところである。
関心があれば皆様も読んでみるとよいだろう。
1-2.『人はなぜ物語を求めるのか』の作品情報
次に今回取り上げる『人はなぜ物語を求めるのか』について、客観的な作品情報である。
発売日 :2018年3月
出版社 :筑摩書房
レーベル:ちくまプリマー新書
サイズ :18cm/220p
目次 :
はじめに
第1章 あなたはだれ? そして、僕はだれ?
1 あなたは「物語る動物」です
2 どんな内容の話が物語る価値があるとみなされるのか
3 話にとって「内容」は必須ではない
第2章 どこまでも、わけが知りたい
1 ストーリーと「なぜ?」
2 説明の背後に、一般論がある
3 なぜ私がこんな目に?
4 感情のホメオスタシス
5 理由ではなく、意味が知りたい
6 なんのために生きているのか? と問うとき
第3章 作り話がほんとうらしいってどういうこと?
1 実話は必ずしも「ほんとうらしい」話でなくていい
2 人は世界を〈物語化〉する方法を変えることができる
第4章 「~すべき」は「動物としての人間」の特徴である
1 物語における道徳
2 世界はどうある「べき」か?
3 僕たちはなぜ〈かっとなって〉しまうのか?
4 不適切な信念=一般論から解放される
第5章 僕たちは「自分がなにを知らないか」を知らない
1 「心の理論」とストーリー
2 「知らない」とはどういうことか?
3 ライフストーリーの編集方針
日本語で読める読書案内
あとがき
備考:本書は「Webちくま」での連載(2016.4-2017.1)を書籍化したものなので、まずは無料で読めるこちらから入るのもよい。
参考 第1回 あなたはだれ? そして、あなたに話しかけているのはだれ?webちくま1-3.『人はなぜ物語を求めるのか』の主張
本書で千野 帽子 氏はどのような立場を取っているかについて、「はじめに」と「あとがき」の言葉から明確にしておこう。
人間はストーリー形式にいろいろな恩恵を受けています。それなしには人間は生きられないと言ってもいいくらいです。(「はじめに」より)
人はだれしも自分独自の「物語」によって世界を色付けし、解釈している。そのなかで喜んだり悲しんだり、あるいは恨み、羨ましがったりしている。
あなたが後生大事に握りしめているその「物語」で人生を問題なく渡っていけるならそれでいい。
問題は、あなた自身が勝手に造り上げた「物語」によって苦しんでいる人たちである。
「人間は物語る動物である」という人間観から、著者は無意識的な物語創作から脱却するためのヒントを提示している。
2.私が選ぶ『人はなぜ物語を求めるのか』の注目すべき考え方2選
2-1.「なぜ?」と問うのはなぜか?
世界は本当は因果律的にはできていないし、理由のないことはいくらでもある(【第2章のまとめ】より)
本書の《第2章 どこまでも、わけが知りたい》では、「ストーリー」の性質について考えている。
人は生きていく上で物語、すなわちストーリーを不可避的に作り出してしまう。
では、まず「ストーリー」とはなにか? それは出来事を時間の流れのなかで把握することである、と千野 帽子 氏は定義する。
そしてそのストーリーをより滑らかにするために、人は「世界にたいする『なぜ』という問と、それへの回答(原因や理由)」(p.51)を持ち出すのだ。
ストーリーが滑らかである、とはどういうことか?
私の経歴を例にして説明してみよう。例えば、履歴書の学歴欄にはこんなふうに書くとする。
2010年3月 某工業高校電子機械科 卒業
2010年4月 某大学電子情報技術科 入学
2010年9月 某大学電子情報技術科 中退
2012年4月 某大学外国語学部 入学
2016年3月 某大学外国語学部 卒業
さて、この事実の羅列から私という人間が理解できるだろうか? できないことはないだろうけれど、甚だ困難であると言わざるを得ない。
だがここで、適宜それらの選択に対する原因や理由を挿し込むとどうなるか?
「高校は、工業高校を選んだ。電子機械科である。しかし将来あるいは就職のことを考えて選んだわけではなかった。ただ漠然と『中学からやっている部活を続けたい』という想いだけは持っており、その強豪校という観点から進学したに過ぎなかった。」
「部活動を引退し、卒業後の進路を決定しなければならない時期になって何も考えず部活だけに取り組んできたことがあだになった。自分のやりたいことがなんなのかさっぱりわからなかったのである。ただ『まだ就職はしたくない』という想いから某大学に進学した。高校時代の延長である電子情報技術を学ぶことになった。ここでの日常はとてつもなく退屈であった。当時を振り返ると、目的もなく、生きている実感がまるでなかったことに気づく。思い出したくもない時期である。」
「大学に入学して半年ほど経ったときある出来事があった。同じ大学の同じクラスにいた友人が交通事故で亡くなったのである。つい先日まで隣で共に授業を受けていた友人が死んだという事実は私に衝撃を与えた。父が亡くなった時よりも“死”を身近に感じた。〝こんなに急に人は死ぬ。自分もいつ死ぬか分からない。やりたくないことをやっている暇は人生にはないのだ〟そういう想いが非常に強くなった。そして私は、その大学を中途退学する決心をしたのだった。」
「それから1,2か月間の私の葛藤は物凄かった。大学を辞め、何者でもない自分に激しい劣等感を感じた。ただ、やりたくもないことに時間を費やしているより精神は遥かに健全であった。その時期に、私は貪るようにたくさんの本を読んだ。特に坂口安吾のエッセイには大きな影響を受けた。『人生はイノチを懸けた遊び』という彼の思想に感銘を受けた。
他人と自分を比較することはまったく無意味だと考えるようになったのもこの時期である。そう考えるようになってから私は非常に生きやすくなった。シンプルに自分が面白いと思うことだけを追求できるようになった。と同時に、私は『自分が本当に学びたいものは“言葉”だ』と気づきだしていた。そしてとある大学で日本語学を専攻することに決めたのである。」
いかがであろうか? こうして「なぜそうしたのか?」に対しての答えを与える(言い換えれば因果関係が示される)と、人間像が浮かび上がりやすくなりはしないだろうか。
これが「ストーリーが滑らかである」ということだ。
では次に、因果関係が示されるとストーリーとして滑らかな感じがするのはなぜか、ということを考えてみよう。
著者いわく、それはできごとが「わかる」気がするためであるという。私たち人間は、ものごとの因果関係がわかったときに「わかった」という感覚を持つらしい。
そして、この「わかった」という感覚は、心のバランスを保つために必須のものであるという。
人間とは、世のなかのできごとの原因や他人の言動の理由がわからないと、落ち着かない生きもののようです。(p.53)
「わかる」というと知性の問題だと思うかもしれません。しかし、このように考えてきた結果、「わかる」と思う気持は感情以外のなにものでもないということが見えてきました。教育心理学者・山鳥重は、つぎのように書いています。
〈わかる、というのは秩序を生む心の働きです。秩序が生まれると、心はわかった、という信号を出してくれます。つまり、わかったという感情です。その信号が出ると、心に快感、落ち着きが生まれます〉(『「わかる」とはどういうことか 認識の脳科学』ちくま新書)(p.55)
上記で私が「わかった」ことを「感覚」と表現しているように、理解は必ずしも自然科学的な事実に適っているということを意味してはいないのである。
たとえ客観的な事実と反していたとしても、それを受取る人間にとって〈因果関係が説明された〉と思える時、われわれは「わかる」ことができるのだ。
人間のこの、勝手に「わかる」ことができる能力は、私たちが生きるこの世界を自分独自に説明し、解釈するための基盤となっている。
とりわけ自分が理解しがたい状況に直面すると、人は「なぜ●●なのか?」という問いを立て、それに対する答えを探し求めて、適当な答えを捏ね上げて自らを落ち着かせようとする。
人が「なぜ?」と問うときは、不本意な状況にいることが多い。だから、ストーリーの出発点は、主人公が不本意な状況にあるということが多いのです。ストーリーの出発点にはしばしば、幸福の欠如が置かれます。それ自体が「望ましからぬ、特筆すべき事態」なのです。(中略)
その危機を理解するために、人間は、時間をさかのぼって、それが自分に理解できるような事情によって起こったということにしてしまいたいのです。(p.79-80)
生きていると、不本意な状況ばかりです。これを仏教で〈一切皆苦〉と言います。(中略)
苦(不本意な状況)が深刻だったり、長期化したりすると、「なぜ生きてるんだろう?」「どうしてこんなに苦しくて悩んでるんだろう?」と問うようになるものです。
前節でアリストテレスの『自然学』に教えられたことは、「なぜ?」という問には「原因」だけでなく「目的」もある、ということでした。
「なぜ生きてるんだろう?」と問うときは、原因や理由(「なんのせいで?」)よりも、むしろ目的、あるいは意味(「なんのために?」)を問うているのです。
理由ではなく、意味が知りたい。(p.98-99)
安易で滑らかなストーリーは、人を手軽に「わかった」気にさせてくれるので逆に危険である、と千野 帽子 氏は注意を促している。
まさにその通りであると私も思う。
自分が「なぜ?」と問いたい事象に遭遇したとき、その答えとなっているような耳障りのよい言説やストーリーに出会ったら十分に警戒しなければならない。
本来説明できないようなことを無理やりに解釈して理解した気になるとたいていロクでもない事態に陥るものである。
そんなときこそ「自分が『なぜ?』と問うのはなぜなのか?」と一歩引いた視点で自らと向き合わねばならない。
そして冒頭に引用した箴言を思い出していただきたいのである。
「世界は本当は因果律的にはできていないし、理由のないことはいくらでもある」
2-2.不条理=理由のない不幸にどう耐えるか?
世界でひたつだけ選択可能なものは、できごとにたいする自分の態度である(【第4章のまとめ】より)
2-1.で、人は危機的で不本意な状況であればあるほど、その事態に対して「なぜ?」と問い、意味を求めようとする性向があることを述べた。
ここでは、いわば〈不条理〉な状況に直面した時、本書ではどのような解決策を提示しているか見てみよう。
千野 帽子 氏は第4章のなかで、「公正世界」の誤謬、あるいは「公正世界」の仮説と呼ばれる認知バイアスを取り上げている。
「公正世界」の誤謬とはどのようなものか?
ことばの難しさに反して、内容自体はとてもわれわれに馴染み深いものである。
例えば、バチが当たるとか、努力すれば報われるとか、要するにある正または負の現象にはそれと釣り合うような理由があるはずだという考え方のことである。
また人間は、因果応報という道徳的な収支決算の合った世界を夢想し、世界はそのように公正であるべきだ(must)、さらにはそうあるはずだ(must)と思っています(ここで僕は「因果応報」「善因善果」などのタームを、必ずしも仏教的に厳密な意味で使っているわけではありません)。正しい行為はすべて報われ、道徳的に間違った行為はすべて罰せられるはずだ、というのが、人間の心の癖(認知バイアス)の一種だ、という説もあります。
これを「公正世界」の誤謬、あるいは「公正世界」の仮説、と呼びます。(p.152)
現在私たちは「新型コロナウイルスの世界的大流行」という災厄の渦中にある。
それ自体は地震や津波あるいは隕石落下などの自然災害に近いものであり、「これ!」と示せるような分かりやすい理由があるとは思えないけれども、人類全体に関わる危機に直面した途端世界中でさまざまな怪しい言説が飛び交った。
(不幸なできごと、)それをそのまま生の状態でじっと見つめること、〈理由のないこともある〉(クシュナー、本書第2章第5節参照)と認めることは、人によっては簡単なことではありません。ただの不幸なできごとだと耐えられないので、意味のある悪い結果としてこれをとらえなおし、それにふさわしい悪い原因を見つけてしまう。(p.154)
そういうものなのである。
また、先日私の同僚が、職場や私生活で連続する厄介事に見舞われている別の同僚に対してこう言っていた。
素朴に日本で生きている人は「厄年」とかを案外気にしているということを私が知ったのは社会人になってからであるけれども、これもまた、「公正世界」の誤謬であろう。
「公正世界」の誤謬にとらわれると、セットで現れてくるのが「コントロール幻想」であると本書は指摘する。
コントロール幻想とはなにか?
人間は他の動物と違って、目的を持って自分の環境を変えてきました。そのせいかどうかはわかりませんが、「自分は自分の意志に従って環境を変えることができるし、そうするべきである」(must)という一般論に、しばしばとらわれてしまいます。いわば「コントロール幻想」です。「させる」という使役表現や、命令形という動詞の使いかたは、こういった人間の「コントロール幻想」という不適切な信念と関係があります。地震は困るので、起こらないようにさせたい。日照りも困るので、雨を降らせたい。あいつの発言は不愉快なので、黙らせたい。夫婦(恋人)なのだから、自分の気持を、説明しないでもわかってくれるべきだ。自分の子どもなのだから、こうなってほしい、いや、なるべきだ。こういった思考は、コントロール幻想そのものです。自然現象や他人を操作可能な対象と見なしています。勝手に。「自分には環境・他者を変える力がある」と思いこむコントロール幻想は、「できごとには原因がある」と思いこむ「因果関係への落としこみ」と同様に、人類が生き延びてくるうえで大いに役に立ったことと思います。
じっさいには、他者や環境や状況は、いつでも操作できるとは限らない。その当たり前のことが明らかになっただけで、人はネガティヴな反応を示してしまいます。
人間には操作できる対象とできない対象があります。同じ対象でも、操作できるときとできないときがあります。たとえ対象が自分が望んだとおりの行動をしたとしても、それはただの偶然か、その対象自体の自発的行動の結果であって、こちらの働きかけの結果ではない、ということだってよくあります。
(中略)
たいていのばあい、人間は本来操作できる範囲を超えたところまで、自分で操作できるはずだと思ってしまっている。そうすると、しょっちゅう、いろんなものにたいして操作を試みる結果、操作の試みの失敗率が下がります。ストーリー的に言えば、多くのものを操作しようとすればするほど、うまくいかないできごとの数が増す、ということになるわけです。(p169-171)
理由のない不幸に遭遇した場合、安易なストーリーに逃れたり、コントロール幻想に縛られてどうにもならない悩みに拘泥することを是としない千野 帽子 氏はある意味とても厳しいけれども、私はこれこそ本物の教養人であるという気がする。
「安易で滑らかなストーリー」の拒絶を体現している。良薬とは常に口に苦いものなのである。
「じゃあいったいどうすりゃいいんだよ!」と叫びたくなるあなたの気持ちもわかるが、心配には及ばない。
著者はちゃんと、われわれがとるべき態度の方向を示してくれている。
それは、環境や他人など操作できない対象を操作しようとするのではなく、本当に操作可能な対象に目を向けることである。
さきほど、〈人間は本来操作できる範囲を超えたところまで、 自分で操作できるはずだと思ってしまっている〉と書きましたが、ここにひとつ、例外があります。 ときとして人間は、ただひとつ操作できる可能性があるものを、操作できないと勘違いしてしまっていることがあるのです。
ただひとつ操作の可能性があるもの、それは自分の選択です。他人が僕に親切にするかどうかは操作できませんが、僕が他人に親切にするかどうかは自分で選択できる可能性があるのです。(p.173)
これは生きにくいわれわれの〈生〉に差す一筋の光明ともいうべき箴言である。
3.『人はなぜ物語を求めるのか』のリーダビリティー(読みやすさ)
ちくまプリマー新書というレーベルがその名の通り入門書を志向しているためでもあるが、読者にとって親切な工夫が凝らされている。
3-1.各章ごとにまとめがついている
まず、各章ごとに最後、そこで議論された内容が簡潔に箇条書きでまとめられているのが素晴らしい。
次の章へ読み進む前の整理に役立つし、逆にまずここをを最初にすべて読んでいってから各章の詳細に入るのも理解が捗っていいかもしれない。
既に読み終えた方は内容を思い出す際にここで振り返ることもできるだろう。
3-2.親切な読書案内
そして本書の最後に、参考文献というか《準拠枠:判断の枠組み》にしている読書案内がカテゴリー別にまとめられていてありがたい。
あなた自身の問題意識によってどの部分を深堀していくか、考えるのも一興ではないだろうか。
主な書籍をここにまとめておこう。
苦しむ人のためのライフストーリー
『女子をこじらせて』雨宮まみ(2011)
『大きらいなやつがいる君のためのリベンジマニュアル』豊島ミホ(2015)
『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』頭木弘樹(2016)
ストーリー研究
『可能世界・人工知能・物語理論』マリー=ロール・ライアン(2006)※岩松 正洋 先生(=千野帽子氏)が翻訳されている
『物語における読者』ウンベルト・エーコ(2011)
『批評の解剖』ノースロップ・フライ(2013)
『ナラトロジー入門』橋本陽介(2014)
『物語の森へ』東京子ども図書館(2017)
発話と表現
『関連性理論』D. スペルベル, D. ウイルソン (2000)
『メンタル・スペース』ジル・フォコニエ(1987)
『物語のディスクール』ジェラール・ジュネット(1985)
『物語の詩学』ジェラール・ジュネット(1997)
『フィクションの修辞学』ウェイン・C.ブース(1991)
「現実効果」(『言語のざわめき』)ロラン・バルト(1987)
『ミメーシス』エーリッヒ・アウエルバッハ(1967)
「小説における時間と時空間の諸形式」(『ミハイル・バフチン全著作5』)ミハイル・バフチン(2001)
『フィクションとは何か』ケンダル・ウォルトン(2016)
『虚構世界の存在論』三浦俊彦(1995)
解釈と学習
『サイバネティクス』ノーバート・ウィーナー(2011)
『メタマジック・ゲーム』ダグラス・R. ホフスタッター(2005)
『知るということ』渡辺慧(2011)
『行為としての読書』W.イーザー(1998)
因果関係
『科学とオカルト』池田清彦(2007)
『〈わたし〉はどこにあるのか』マイケル・S・ガザニガ (2014)
『神々の沈黙』ジュリアン・ジェインズ(2005)
『「わかる」とはどういうことか』山鳥重(2002)
『わかったつもり』西林克彦(2005)
『人間本性論』デイヴィッド・ヒューム(2019)
『なぜ私だけが苦しむのか』H.S. クシュナー(2008)
『物語の構造分析』ロラン・バルト(1979)
『小説の諸相』E.M. フォースター(1994)
偶然の問題
『偶然の本質』アーサー・ケストラー(2006)
『偶然性の問題』九鬼周造(2012)
神話
『神はなぜいるのか? 』パスカル・ボイヤー(2008)
『人はなぜ神を創りだすのか』ヴァルター・ブルケルト(1998)
『宇宙樹・神話・歴史記述』V.N.トポローフ, V.V.イワーノフ(1983)
『文学理論と構造主義』ユーリー M.ロトマン(1978)
『メールヒェンの起源』アンドレ・ヨレス(1999)
『物語について』W.J.T. ミッチェル 編(1987)
『生きるよすがとしての神話』ジョーゼフ・キャンベル (2016)
物語的アイデンティティ
『エゴ・トンネル』トーマス・メッツィンガー(2015)
『他者のような自己自身』P.リクール(2010)
『デカルトの誤り』アントニオ・R・ダマシオ(2010)
自我というものの仮說性
『知恵の樹』ウンベルト・マトゥラーナ, フランシスコ・バレーラ(1997)
『ユーザーイリュージョン』トール・ノーレットランダーシュ (2002)
『一般システム理論』フォン・ベルタランフィ(1973)
『ゲシュタルトクライス』V.v.ヴァイツゼッカー(1995)
『生物から見た世界』ユクスキュル, クリサート(2005)
『我と汝 対話』マルティン・ブーバー(1979)
『善の研究』西田幾多郎(2006)
『無心ということ』鈴木大拙(2007)
世界観と人生の意味
『心の仕組み』スティーブン・ピンカー(2013)
『意味の復権』J・ブルーナー(2016)
『死と愛 実存分析入門』V.E.フランクル(1983)
『自然学』アリストテレス(2017)
『道徳の系譜』ニーチェ(1964)
『暗黙知の次元』M.ポランニー(2003)
『内臓とこころ』三木成夫(2013)
『表現学の基礎理論』 L.クラーゲス(1964)
『仏教思想のゼロポイント』魚川祐司(2015)
『望郷と海』石原吉郎(2012)
『生きる勇気』パウル・ティリッヒ (1995)
感情
『道徳性の起源: ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール(2014)
『赤ちゃんはどこまで人間なのか』ポール・ブルーム(2006)
『怒りをコントロールできる人、できない人』アルバート・エリス, レイモンド・C. タフレイト(2004)
『エピクテトス 人生談義 (下) 』エピクテトス(2021)
『幸福論』アラン(1998)
『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村 元 訳(1978)
自分のライフストーリーをどう編集していけばよいか
『心はどこにあるのか』ダニエル・C. デネット(2016)
『宗教的経験の諸相』W.ジェイムズ (1969)
『消えたい』高橋和巳(2017)
『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』二村ヒトシ(2014)
読書案内をまとめていて、改めて千野 帽子 氏という評論家の読書・知識の射程の幅広さと奥行に脱帽した(「帽子」だけに)。
さて、私は次に何を読み、どんな問題を考えるべきか。それが問題だ。