【書評】佐藤 究『Ank: a mirroring ape』——人類の起源に迫る自我意識の謎【魅力を徹底解説!】

「言っておきますが」と望は告げる。「僕は類人猿の遺伝子操作や、突然変異には興味がありません。ただ進化の過程で何が起きてわれわれが生まれたのかを知りたいだけです」
「私も同じ考えだ」とダニエル・キュイは言う。「一部の科学者が取り組んでいるような『類人猿の言語習得』も可能だとは思っていない。それは『AIに自我が芽生える』のと同じくらい、あり得ない話だ。
そういう挑戦への失敗は、すでにとおってきた道なのでね。順番が逆なんだ。われわれができることをAIや類人猿に教えたところで、進化の謎を解くことにはならない。だから——」

佐藤 究『Ank: a mirroring ape』


今回紹介する本はこんな人におすすめ⇩⇩
  • 人類とはなにか? を知りたい人
  • ヒトだけが意識や言語を使えるように進化したのはなぜか? を考えてみたい人
  • 暴力性の起源に関心がある人
  • SF小説やミステリー小説が好きな人
Key words
人類/ホモ・サピエンス/共通祖先=ロスト・エイプ/意識/言語/鏡像行為=ミラリング

2018年にNHKスペシャル「人類誕生」という番組が放送されていた。


ナビゲーターは高橋一生。

当時某商社の営業マンとしてストレスフルな生活を送っていた私は、仕事終わりの疲れた脳で夜中になにげなく録画しておいたこの番組を見た。

そして

D氏

なんじゃ、ロスト・エイプって…。おもしろ!

とにわかに興奮していた。

“今”に繋がる壮大な系譜を想像して、自らの人生の矮小さを思い知った。

「およそ700万年前にアフリカで誕生した人類は、その後、いくつもの種に枝分かれし、誕生と絶滅を繰り返しながら進化してきた。
最新の研究によれば、分かっているだけでもおよそ20種もの人類が地球上に暮らしていたと考えられている」

参考 人類誕生NHKスペシャル

現在はそれらのロスト・エイプがすべて絶滅していて、ホモ・サピエンスだけが残っている。

その生存の明暗を分けた理由とは一体なんなのか?

今回取り上げる佐藤 究 著『Ank: a mirroring ape』という小説では、まさにその生物進化的な謎を《京都暴動》キョ―ト・ライオットという事件を通じて追及している。

世界を巻き込む、血で血を洗うようなその事件を引き起こしたのは、なんと一匹のチンパンジーであった…!

この作品はSFなのかミステリーなのか、あるいは霊長類学会に一石を投じる提言の書か。

もはやジャンル分けさえできない“エンターテインメント小説”だが、とにかくおもしろかったので紹介する。

なお、小説なのでネタバレはしないつもりだが、本書が多少読みやすくなるような概要整理の過程で多少作品内用語を使用することをお断りしておく。

それでは本題に入ろう。

1.『Ank: a mirroring ape』の基本情報


1-1.佐藤 究 について

1977年福岡県生まれ。2021年時点で44歳。
福岡大学付属大濠高等学校卒業。
2004年に佐藤憲胤名義で書いた『サージウスの死神』が第47回群像新人文学賞優秀作となりデビュー。
2016年『QJKJQ』で第62回江戸川乱歩賞を受賞。
2018年『Ank: a mirroring ape』で第20回大藪春彦賞、第39回吉川英治文学新人賞を受賞。
2021年『テスカトリポカ』で第165回直木賞を受賞。

群像新人文学賞という「純文学」でデビューしてから、長い不遇の時代を経てエンターテインメント作家として再デビューしている。

詳細は「佐藤究(きわむ)のプロフィールや経歴と作品を紹介!【山本周五郎賞作家】」に詳しい。

1-2.作品情報

■出版日:2019年9月13日(単行本:2017年8月)
■出版社:講談社文庫
■目次:

 プロローグ
 1 霊長類研究者
 2 これは感染爆発ではない
 3 超暴動
 4 かつてこうであったもの
 エピローグ

■あらすじ
2026年10月、多数の死者を出した京都暴動(キョート・ライオット)。ウィルス、病原菌、化学物質が原因ではない。そしてテロ攻撃の可能性もない。
京都のチンパンジー研究施設「KMWPセンター」を震源に、人々が我を忘れて周囲の人間を手当たり次第に殺戮する未曾有の災厄はなぜ発生したのか?
鈴木望はその事態の中心に「アンク」と名付けられたチンパンジーがいることを直感し、謎の解明に奔走する。
その過程で彼は、人類進化の真相に迫っていく。

■主要な登場人物

鈴木望
在野の若き霊長類研究者。2026年時点で31歳。元々は〈京都大学霊長類研究所〉に所属していたが、ダニエル・キュイにヘッドハンティングされてKMWP──京都ムーンウォッチャーズ・プロジェクト(Kyoto Moonwatchers Project)センターのセンター長となる。チンパンジーを研究している。
(名前の語呂や雰囲気が著者の「佐藤究」にそこはかとなく似ているのは気のせいだろうか?)

アンク
東アフリカから保護され日本にきたチンパンジー。類例のない鏡像行為能力を見せたことから古代エジプトの言葉で「鏡(Anke)」を意味する「ANK」と名付けられた。

ダニエル・キュイ
カウンセリング用AIの研究・開発で世界的名声を得たが、その後AI研究から謎の撤退をし、霊長類研究分野へ進出。彼の出資によって始まったKMWPの責任者に当時無名だった鈴木望を任命した。好きな映画はスタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」。

ケイティ・メレンデス
サイエンス・ライター。2026年時点で28歳。過去に薬物依存症となり、ダニエル・キュイの開発したAI「ルイ」によるカウンセリングによって立ち直った。それ以降、キュイに関心を抱き追いかけるライターとなった。

テレンス・ウェード
イギリス人進化遺伝学者。鈴木望と二人で「ある極秘の研究」をすすめる。

2.私が選ぶ『Ank: a mirroring ape』の魅力3選+気付き

2-1.魅力①謎の提示と究明

この小説最大の魅力はなんといっても「われわれ人類(ホモ・サピエンス)とはなんなのか?」という巨大なクエスチョンと、それに対する説得力ある「説明」である。

この物語の中心を貫く、ぶっとい骨は主人公・鈴木望の学術論文「ミラリング・エイプ」だ。
作中では論文そのものは書かれていない。しかし、その論文がどのようなアイデアのもと執筆されるかをまとめるため、タブレット端末の文字起こしソフトに語り掛けるという形で提示される。

それが以下の部分である。

・鈴木望の論文草案「ミラリング・エイプ」(1)p.163-172
・鈴木望の論文草案「ミラリング・エイプ」(2)p.192-199
・鈴木望の論文草案「ミラリング・エイプ」(3)p.228-232

正直、この小説は上記を読むだけでもとんでもない知的興奮を味わえる。

言うまでもないが、論文とはある問いを立てて、それを解明する研究を行い、出た結果を論理的に示す文章である。

では鈴木望の論文では何が問われているか? それは次のようなものである。

700万年前、ヒトとチンパンジーは〈共通祖先=ロスト・エイプ〉から分岐したとされる。ヒトと類人猿を隔てる原点。つまり「言語」そしてその先にある「意識」を持つものと持たざるものの決定的な差異はなぜ生じたのか?

その論文の結論は物語の核心に関わるのでここでは明かさないが、タイトルにある通り「ミラリング」が重要である。

ミラリング(ミラーリング)とは社会心理学の概念である。

厳密には「非意識的模倣 unconscious mimicry」という。

心理学者のチャートランドとバージが1999年に発表した論文では、ヒトは非意識的に他者を鏡写しのように模倣することを示した。

その模倣行動の意味はなにかというと、模倣された側が模倣した側に対して好意を抱くというものである。

つまり、ヒトは自分と似た行動=同調や共感を示す他者と友好関係を結ぶような性向が備わっているのだ。これはコミュニケーションの基盤である。

そのミラリングを支えている前提がある。「自己鏡像認識」である。

われわれは鏡に写った像が自分であることがわかる。しかしこの能力はどの生物にとっても当たり前に備わっているかといえばそうではない。
驚くべきことに、この地球上に鏡像認識が可能な生物はヒトと4種の大型類人猿——チンパンジー、ボノボ、ゴリラ、オランウータンしか存在しないのである。
※ゾウやイルカも一部できるようだが。

第一、自然界で生きていく上で“鏡”なんてないんだからそんな認識不要でしょう?
そう思ったアナタは鋭い。しかしこの小説ではその点も重要な謎の一つなのでここでは言及しない。

とにかく、この鏡像認識は進化の過程でどう獲得されたのか? また、その過程でDNAレベルに刻まれたどんな記憶が、われわれをどのような行動に駆り立てるのか?

その疑問の答えの中に《京都暴動》の要因も「地球上に現存するヒト族はホモ・サピエンス一種」である理由もすべて含まれている。

それがこの物語の最も読み応えのある部分である。

2-2.魅力②「研究者」のリアル

次に「研究者」という観点からこの小説を考えてみよう。

主人公・鈴木望は大学という研究機関を飛び出した在野の研究者である。

研究者にとって大事なのは「研究費=予算」をいかに獲得するかということである。それはどこで研究しようとも変わらない。

作品にこんな記述がある。

(『インターセクション』誌に掲載された学術論文がまったく話題になっていない状況を受けて)
「論文について考えれば考えるほど、望は落胆していった。欲しいのは〈霊長類研究者・鈴木望〉への評価そのものではなく、みずからが求める研究のできる環境作りであって、だがそのためには結局、〈霊長類研究者・鈴木望〉への評価が不可欠だった。注目がなければ予算も出ない」(p.74)

大学ならば「科研費」に申請し、審査に通れば国家から研究予算がつく。あるいは民間企業や公益財団法人等の助成金を獲得して研究が行われることもある。

美術分野で例えるなら「パトロン」、経済分野で例えるなら「出資者」を得ることが重要なのである。

なんにせよ、研究に対して安定的にお金を出させるには、それが「魅力的」でなければならない。この「魅力的」というのは、お金を出す側の価値観に沿う形での魅力だ。

製造業、食品、医療、美容、宇宙開発、広告etc. 
それぞれの分野で求められる研究テーマは異なるだろう。

現代では上記のような経済合理主義的に「役に立つ」とされる研究にお金が集中している。ありていにいって、直接的に人々の生活を豊かにするような、より金儲けができそうな研究にお金が集まる世の中になっている。

一方で哲学や文学、社会学などいわゆる人文社会学分野の研究費獲得は苦境に立たされている。
「そんな役に立たない研究に金使ってどうすんだよ」というのが趨勢だろう。

そういう観点からみると、鈴木望の研究分野「文化人類学」は微妙な位置付けといえる。

人類に繋がる進化の謎を解いたところでわれわれの実生活に何らかの影響があるかと言われればなにもない。そんなものは知らなくても人生を送っていく上でなんの不都合もない。
にもかかわらず、われわれは(少なくとも文化人類学者や私、あるいは作中のダニエル・キュイは)その謎を心の底から解明されることを望む。

それはなぜか?

私たちには、自らを位置付けたいという根源的な欲求があるからである。

一般に「起源論」と呼ばれる分野がある。宇宙にせよ、学問にせよ、「私」にせよ、存在するものにはすべて起源がある。

起源を知るということは、この世界に存在するための位置付けを知ることであり、それは存在の確信、つまり本質的な自信となる。その自信は生きていく上での指針となるのだ。

だから、われわれは類人猿から人間になるための契機を探し続けている。

しかし、私たちに3歳以前の記憶がないように(あると主張する人もいるが)、人類の起源は覆い隠されていて、タイムマシンでもない限り真の意味での「正解」など知りうるべくもない。

そういう状況の中で「正しい」主張をするにはどうすればよいか? それが問題である。

答えは一つしかない。「一貫性があり、論理的に破たんしていないこと」それがすべてだ。

現に成立している「事実」から、「それが成立しているということは、つまり●●である」という推論的な遡りによってのみ、われわれは過去に何が起きたかを知りうる。

鈴木望の論文「ミラリング・エイプ」は、ダニエル・キュイにとってその種の説得力を持っていた。そして彼の研究に“人類進化の謎の究明”を賭けた。
だからこそ、10億ドル(日本円にして1000億円以上)もの巨額の研究費をKMWPに投じたのである。

ダニエル・キュイが鈴木望との対話に応じ、同じ問題意識を共有し、出資を決めるまでの流れは以下で描かれている。

・ダニエル・キュイと鈴木望(1)p.77-83
・ダニエル・キュイと鈴木望(2)p.89-94
・マリーナベイ・サンズでの対話(1)p.506-518
・マリーナベイ・サンズでの対話(2)p.525-531
・マリーナベイ・サンズでの対話(2)p.545-551

2-3.魅力③作品世界の奥行

ここまでは作品世界内に焦点を置いてきたが、魅力の最後にメタな視点からこの小説を捉えてみよう。

本書では、いくつもの時間軸が前後して語られ、それらすべてが《京都暴動》へ収斂していくという構造をとっている。

鈴木望、ダニエル・キュイ、ケイティ、監視カメラ、SNS、メディア映像、監視カメラ、京都府、日本政府・アメリカ政府の報告文書など、過去現在未来の視点を縦横無尽に描き、物語世界を多角的に見ることができ、それが作品世界に奥行きと深みを与えている。

これはいわば映画の「モンタージュ」的手法であり、佐藤究という作家の只事ではない「物語構築力」が読み取れるだろう。

巻末に参考文献リストを掲載しているあたり、綿密に調べて書くタイプの作家という印象を受けた。
作家には文体や言葉の感触を積み重ねて世界観を作るタイプと、あらかじめ徹底的な世界観のプロットを造っておくタイプがいるが、佐藤究は後者なのではないかと想像している。
(もちろん、両者は厳密に分けることはできないしどの作家も多かれ少なかれその両方が混ざっているのだろうけど)

2-4.感想と気づき

蛇足かもしれないが、私がこの小説を読んで思い付いたことをいくつか述べておく。

京都
《京都暴動》キョ―ト・ライオットというくらいなので、この小説は京都を舞台にした小説である。
そして京都を舞台にした作品で私がまっさきに思い浮かべるのは森見登美彦である。同じ京都を描いていても『Ank: a mirroring ape』は森見登美彦の描く牧歌的でユニークな京都の様相とはまったく異なっている。

佐藤究の京都は血みどろである。緊急事態宣言が発出され、人がおらず、血に染まった京都は想像でもなかなか異様であった。

積み重ねる言葉によって立ち現れてくる《現実》は変わるのだ、と実感した。これが小説のおもしろさだ。

バイオレンス
この著者の一つの特徴らしいバイオレンスな場面は、個人的にたいして魅力を感じなかった。むしろ冗長にも感じられた(作品インタビューで「10ページ分削った」らしいが)。

参考 佐藤 究「Ank: a mirroring ape」特設ページ講談社BOOK俱楽部

とあることが原因で人間がDNAレベルに刻まれた剥き出し暴力性を思い出し、互いに殺戮をするのであるが、リアリズムも迫力もスピード感も突出したものはなかったと思う。
これは筒井康隆の小説が好きな私の個人的事情に拠るところもないではない。

キャラクター性
キャラクター性という観点からみると、正直『Ank: a mirroring ape』の登場人物の魅力は乏しい。主人公にしろ彼をとりまく人物にしろ、キャラクターとして愛せるかといえばそうでもない(あくまで個人的には)。ダニエル・キュイは結局最後まで謎が多いし。

それでもなお、私はこの小説のページを手繰ることを止めることができなかった。まさに「一気読み」だった。

それはひとえに「物語(ストーリー)」の圧倒的おもしろさに拠るところが大きかった。

3.私的な関連作品のメモ

最後に、私が本書を読みながら思い浮かべた作品を参考程度に記して終わろう。

■パニック小説としての類似性がある作品
・『ハーモニー』伊藤計劃
・『ツィス』広瀬正

■京都を舞台に繰り広げられるドタバタ騒動作品
・森見登美彦の《腐れ大学生》もの

■大型類人猿とホモサピエンスの文化人類学
・『性の進化論』クリストファー・ライアン, カシルダ・ジェタ
・『起源論』岸田秀

これらの作品も併せて鑑賞すると『Ank: a mirroring ape』をより愉しめるかもしれないのでおすすめである。

私は次に佐藤究の最新作『テスカトリポカ』を読むつもりだ。

それではまた。

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