斎藤 環「バフチンにおける対話と「プロセス」」より
今回紹介する本はこんな人におすすめ⇩⇩
- 統合失調症を治す「オープンダイアローグ」とはどんなものか関心がある
- 「オープンダイアローグ」の思想的・理論的基礎付けを考えたい
- 「対話」の技術を教育や接客や対人関係に生かしたいすべての人
私がかねてよりいわゆる「精神病」とか「精神分析」に並々ならぬ興味関心を寄せていることはご存じの通りである。
【ご参考⇩⇩】
【書評】木村敏『異常の構造』——正常/異常とはなにか?
【書評】フレドリック・ブラウン『さあ、気ちがいになりなさい』【ユーモアとアイデアの傑作SF短編を解説!(ネタバレ注意!)】
そのような文脈で、今回は現代における統合失調症の治療方法(の一つ)である「オープンダイアローグ」について、非常に面白い論考を読んだので紹介する。
まず読者諸賢のなかに「オープンダイアローグ」という言葉を聞いたことがある人はどれだけいるだろうか?
おそらく大抵の人はないであろう。聞いたことがある人はメンタルヘルス界隈の医療関係者か、あるいは思想に関心のある人に限られるのではあるまいか。
私自身がこの言葉を知ったのは割と昔で、6~7年前に以下の動画を見た時であった。
この動画ではもっぱら文芸批評を主題として大澤 聡 氏(批評家・メディア史研究者)と斎藤 環 氏(現 筑波大学医学医療系社会精神保健学・教授)が対談しているのだけれど、その後半で斎藤 環 氏が著・翻訳した『オープンダイアローグとは何か』(2015)の話題になる。
当時私は路傍に転がるへっぽこ腐れ大学生に過ぎなかったから(「今も変わらずへっぽこだろう」という批判は甘んじて受け入れよう)、
D氏
それからしばらくは忘れていたのだけれど、最近になりまた斎藤 環 氏が私の問題意識に引き寄せられて現れてきた。
きっかけは『大航海 2004,51号 特集:精神分析の21世紀』というやや古い雑誌で斎藤 環 氏が寄稿した文章を読んだことであった。
「なぜ「精神分析」か?」というエッセイで「やっぱりこの人はおもしろいことを考えるなあ」と大いに感心した。
で、おもしろい学者を見つけたとき、私はまず論文(とその掲載情報)を検索する。なぜかというと、成果としての論文をどれだけコンスタントに発表しているかが、その学者がどれだけまじめに研究しているかの指標になるからである(あくまで持論です)。
使用するデータベースや検索方法はこの記事の主題ではないので深入りしないけれど、調べ始めてすぐに出会ったのが今回取り上げる『「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ』であった。
掲載情報を追ってみると「精神看護」という医学ジャーナルで2020年9月から連載しており、2022年7月に最新の12回目が発表されていた。すぐさま既刊の1~12回の論考をダウンロードして読んだ。
D氏
ありていに言って、今回はそれだけの記事である。
なお、私は医科系大学職員という立場上、「医書.jp」という電子ジャーナルプラットフォームを無料で利用できるので、今回紹介する論考をすべて無料で読むことができた。
だが誰もがそうではないと思うので図書館を利用するか、「精神看護」という雑誌を個別に買い求められたい。
「オープンダイアローグ」とはそもそもどのようなものか?
とはいうものの何のとっかかりもなく「じゃあ読んでみます!」という素直な知的変態がそうそういるとも思えないので、少しだけ概要をまとめておくことにします。
斎藤 環 とはだれか?
まずは著者であるところの斎藤 環 氏について、基本的な情報を提示しておこう。
斎藤 環 氏は1961年岩手県生まれ。2022年時点で60歳ないし61歳。
精神科医、評論家である。
1986年に筑波大学医学専門学群を卒業し、1990年に大学院医学研究科博士課程を修了して29歳で医学博士の学位を取得している。凄い!
なお、医学部を卒業と同時に博士課程へ進学しているが、初期・後期臨床研修はどこで行ったのだろうか? あまりちゃんと調べていないのでそこは分からない。
2013年から現職の筑波大学医学医療系社会精神保健学教授を務めている。特筆すべきは、今なお千葉県船橋市にある心療内科・精神科診療所「あしたの風クリニック」で臨床を行っていることだ。
つまり、精神病治療の前線に身を置く実践家、プラグマティストと言える。
専門は思春期・青年期の精神病理学、病跡学。「社会的ひきこもり」を始め、さまざまな青年期の問題に関する論考を展開していることは知られている通りであろう。
さて、そういう一般的な経歴はさておき、私にとって斎藤 環 氏とは、ラカン精神分析を批評理論として応用した文芸批評家である。
ポストモダン思想家の一人としても有名であろう。が、私はポストモダンという曖昧模糊した思想家世代にあまり関心がないからこの文脈で斎藤環を読んだことはない。
オープンダイアローグの概要
次に「オープンダイアローグ」について簡潔に紹介しておこう。
もともとオープンダイアローグは、主に急性期の統合失調症患者に対する治療的介入として開発されてきたケアの手法だという。
1980年代からフィンランドの病院にて開発と実践が蓄積されてきた。
従来、統合失調症の治療、とりわけ急性期においては薬物治療や入院治療が必須と考えられていた(日本では今なおそうだろう)が、オープンダイアローグ導入後、薬物も入院も最小限度にとどめることが可能となった。そのうえで、再発率の低下、社会復帰率の上昇など、極めて良好な治療成績を上げており、エビデンスも確立されつつあるという。
手法の概略は以下の通りである。
②そこで本人や家族、友人知人らの関係者(「ネットワーク」と呼ばれる)が車座になって座り「開かれた対話」を行う。
③ミーティングは、 クライアントの状態が改善するまで、 ほぼ毎日のように続けられることもある。
④ODは訪間が基本であるが、外来や病棟で実践される場合もある。
斎藤環「統合失調症に対するオープンダイアローグ」(「精神医学」,2021)より
統合失調症とはなにか?
オープンダイアローグは統合失調症の治療方法だということは分かったが、読者諸賢のなかには「そもそも統合失調症とはどんな病気なのか?」(精神病を「病気」と見ること自体に問題があると考える人も少なからずいるので難しい問題だが)と疑問の方もいらっしゃるであろうから、できる範囲で言及しよう。
以下は「日本大百科全書(ニッポニカ)」の引用。
代表的な精神疾患の一つ。19世紀末ドイツの精神医学者クレペリンにより早発性痴呆 (ちほう) dementia praecoxといわれたものであるが、1911年スイスのブロイラーが精神病理学的にとらえ直しスキゾフレニアschizophreniaという名を提唱した。日本ではschizophreniaを直訳した精神分裂病という名称が1937年(昭和12)より用いられてきた(精神乖離 (かいり) 症、精神分裂症といわれたこともある)。しかし、精神それ自体の分裂と誤解されやすいこと、患者の人格否定につながるなどの理由から、2002年(平成14)schizophreniaを訳しなおした「統合失調症」に改められた。
思春期から青年期に発症する例が多く、放置すると徐々に増悪を繰り返しながら経過し、やがて特有な人格の変化をきたし、周囲に無関心となって自分だけの世界に閉じこもってしまうもの(自閉)である。しかし、早期発見と適切な治療により回復可能であり、再発を防ぐ努力もなされ、以前よりも重篤な状態におちいることが少なくなった。原因は今日なお不明であるが、発生頻度は100人当り1人といわれている。
[保崎秀夫]
お次は「コンサイス20世紀思想辞典」の引用より。
精神病
梅毒、外傷、薬物などに起因する脳損傷も精神機能の障害を惹き起こすが、これは、脳の身体病だから、厳密には精神病に入らない(精神機能の障害はすべて脳の身体病であるという立場に立てば別であるが)。精神機能の障害には、おおまかに言えば、神経症、性倒錯、性格異常なども含まれるが、これらは精神病と区別される(神経症と精神病の境界にあるとされる境界例もあるが)。一般に精神病と言えば、精神分裂病と躁鬱病が代表的なものである(両者が混合しているような非定型精神病というのもあるが)。神経症などと精神病とは、前者は病識があり、自我が崩壊せず、一応の社会生活ができ、後者はその逆で、妄想や幻覚があるといった点で区別できるとされているが、病識があって社会生活ができる精神分裂病者もおり、また、状況次第で正常者に幻覚が現れることもあり、決定的ではない。要するに、はっきりしないのが精神病である。[岸田秀]
つまり、統合失調症の本当の原因は現代の医学をもってしてもなお、はっきりとは分かっていないということの合意は取れているのである。
陽性症状としては「妄想」「幻覚」「思考障害」などがある。
陰性症状としては「感情の平板化(感情鈍麻)」「思考の貧困」「意欲の欠如」「自閉(社会的引きこもり)」がある。
なお、あらかじめ断っておかねばならい。
本記事は「精神分析」にカテゴライズしているけれども、斎藤 環 氏は「オープンダイアローグ」と「精神分析」を必ずしも同列に見ていない。
後者は前者の理論的基盤の一つを為してはいるけれども、技法としてのオープンダイアローグには精神分析に由来する要素はほとんど見当たらないとまで言っている。
つまり、精神病の治療方法として現実の臨床実践で使えるかという観点から見れば両者には大きな隔たりがある。
それでもなお当ブログにおいては、オープンダイアローグが精神分析との縁を切っても切れないものと捉えてカテゴライズした。
そのような細かい話は抜きにしても、今回紹介する連載はオープンダイアローグ入門として最高のテクストだし、現在進行形で斎藤 環 氏のスリリングな思考を追える点でもおすすめである。
オープンダイアローグという≪対話の技術≫を教養として知っておくことは万人に役立つこと請け合いだ。
『「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ』を読もう!
それぞれのリンクから各論考の概要までは無料で読むことができるのでぜひ参考にしていただきたい。
1.なぜ対話ごときで治癒が起こるのか?
なぜ対話ごときで治癒が起こるのか?
「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・1【新連載】
斎藤 環
精神看護 23巻 5号 pp.462-466 (2020年9月)
医学書院
【DOI】https://doi.org/10.11477/mf.1689200799
参考
なぜ対話ごときで治癒が起こるのか?(「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・1)医書.jp, 「精神看護」
2.「無意識」の協働作業
「無意識」の協働作業
「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・2
斎藤 環
精神看護 23巻 6号 pp.542-547 (2020年11月)
医学書院
【DOI】https://doi.org/10.11477/mf.1689200813
参考
「無意識」の協働作業(「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・2)医書.jp, 「精神看護」
3.ジャック・ラカンの精神分析
ジャック・ラカンの精神分析
「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・3
斎藤 環
精神看護 24巻 1号 pp.74-79 (2021年1月)
医学書院
【DOI】https://doi.org/10.11477/mf.1689200839
参考
ジャック・ラカンの精神分析(「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・3)医書.jp, 「精神看護」
4.批判としての「否定神学」
批判としての「否定神学」
「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・4
斎藤 環
精神看護 24巻 2号 pp.186-191 (2021年3月)
医学書院
【DOI】https://doi.org/10.11477/mf.1689200869
参考
批判としての「否定神学」(「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・4)医書.jp, 「精神看護」
5.こんなに“使える”否定神学
こんなに“使える”否定神学
「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・5
斎藤 環
精神看護 24巻 3号 pp.248-253 (2021年5月)
医学書院
【DOI】https://doi.org/10.11477/mf.1689200885
参考
こんなに“使える”否定神学(「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・5)医書.jp, 「精神看護」
6.否定神学はいかに批判されたか
否定神学はいかに批判されたか
「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・6
斎藤 環
精神看護 24巻 4号 pp.374-379 (2021年7月)
医学書院
【DOI】https://doi.org/10.11477/mf.1689200910
参考
否定神学はいかに批判されたか(「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・6)医書.jp, 「精神看護」
7.なぜ精神分析は「過程」を語れないのか
なぜ精神分析は「過程」を語れないのか
「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・7
斎藤 環
精神看護 24巻 5号 pp.492-497 (2021年9月)
医学書院
【DOI】https://doi.org/10.11477/mf.1689200932
参考
なぜ精神分析は「過程」を語れないのか(「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・7)医書.jp, 「精神看護」
8.「プロセス」をめぐる逆説
「プロセス」をめぐる逆説
「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・8
斎藤 環
精神看護 24巻 6号 pp.584-589 (2021年11月)
医学書院
【DOI】https://doi.org/10.11477/mf.1689200951
参考
「プロセス」をめぐる逆説(「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・8)医書.jp, 「精神看護」
9.逆説・プロセス・システム
逆説・プロセス・システム
「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・9
斎藤 環
精神看護 25巻 1号 pp.68-73 (2022年1月)
医学書院
【DOI】https://doi.org/10.11477/mf.1689200970
参考
逆説・プロセス・システム(「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・9)医書.jp, 「精神看護」
10.バフチンにおける対話と「プロセス」
バフチンにおける対話と「プロセス」
「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・10
斎藤 環
精神看護 25巻 2号 pp.164-169 (2022年3月)
医学書院
【DOI】https://doi.org/10.11477/mf.1689200988
参考
バフチンにおける対話と「プロセス」(「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・10)医書.jp, 「精神看護」
11.対話における身体性
対話における身体性
「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・11
斎藤 環
精神看護 25巻 3号 pp.256-262 (2022年5月)
医学書院
【DOI】https://doi.org/10.11477/mf.1689201010
参考
対話における身体性(「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・11)医書.jp, 「精神看護」
12.隠喩における身体性とは
隠喩における身体性とは
「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・12
斎藤 環
精神看護 25巻 4号 pp.348-354 (2022年7月)
医学書院
【DOI】https://doi.org/10.11477/mf.1689201027
参考
隠喩における身体性とは(「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・12)医書.jp, 「精神看護」
13.身体が思考する
身体が思考する
「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・13
斎藤 環
精神看護 25巻 5号 pp.450-455 (2022年9月)
医学書院
【DOI】https://doi.org/10.11477/mf.1689201046
参考
身体が思考する(「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・13)医書.jp, 「精神看護」
14. 「他者」の逆説
「他者」の逆説
「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・14
斎藤 環
精神看護 25巻 6号 pp.546-551(2022年11月)
医学書院
【DOI】https://doi.org/10.11477/mf.1689201068
参考
「他者」の逆説(「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・14)医書.jp, 「精神看護」
15. 「コンテクスト」を揺さぶること
「コンテクスト」を揺さぶること
「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・15
斎藤 環
精神看護 26巻 1号 pp.100-106(2023年1月)
医学書院
【DOI】https://doi.org/10.11477/mf.1689201099
参考
「コンテクスト」を揺さぶること(「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・15)医書.jp, 「精神看護」
ただ「語り合う」ことの効用
『「ゼロ」からはじめる』とタイトルにあるだけあって、各回とも「オープンダイアローグ」を巡ってその基礎となる思想や実践について実に丁寧に言葉を尽くされている。初学者でも分かりやすいように随所に著者の親切心が行き渡っている。
それでもなお、読者のある程度の知識を前提としているのですべてをきっちり理解しようとするとやや骨が折れることは確かだ。
その点を差し引いても読む価値のある「オープンダイアローグ入門」である。
「対話」という言葉から私が連想するものに、よしもとばなな「幽霊の家」(『デッドエンドの思い出』収録)という短編小説のこんな一節がある。
大人にならなければ、ああいう意味のない時間……こたつで親しい誰かとむきあって、少し退屈な気持ちになりながらもどちらも自分の意見に固執してとげとげすることはなく、たまに相手の言うことに感心しながらえんえんとしゃべったり黙ったりしていられるということが、セックスしたり大喧嘩して熱く仲直りしたりすることよりもずっと貴重だということに、あんなふうに間をおいて、衝撃的に気づくことは決してなかっただろう。(p.60)
ところで、私は妻とよく喋る。娘のこと、職場のこと、本のこと、学問のこと、漫画のこと、アニメのこと、音楽のこと、映画のこと、ドラマのこと、将来のこと、投資のこと、住む場所のこと、未来のこと、過去のこと、性格のこと、親兄弟のこと、日本のこと、世界のこと。
そこに目的などない。結論などない。ただ二人で(あるいは抱きかかえた娘も一緒に)語り合う。
そのことが精神衛生上なによりも有益であることを私は経験的に知っている。だからこそ今回、斎藤 環 氏の論考を読んで腑に落ちたのであった。
精神病を患う人間に欠如しているのは、この「語り合う」という時間、あるいはその相手なのだろう。そう考えた。
自分を受容し、相手を受容する。言葉は、音に過ぎないのに、そこには「意味」が乗っかっていて相手に届く。そのやりとりの中で人は「自分」を知り、相手を知る。社会の中で生きていくことができる。
斎藤 環 氏の『「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ』はそういうことを考えさせられる、“対話”の哲学ともいうべききわめて興味深い論考なので、ぜひ読んでみてほしい。
気になる方は以下の著書もどうぞ。